書き終わるまで結論はわからないので、粗く書いていくしかないんだけれど、『知に働けば蔵が建つ』を読み返して思ったことを書くのね。
「資本主義の精神」を引き継がず「資本主義」を導入したのが「明治維新」ではないかと以前の日記で書いた。
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そして、とりあえずはうまく行った。
資本主義が精神抜きにうまく行った最初の国が日本の可能性があるってことだな。
その動機は「西欧に肩を並べたい」あるいは「西欧に負けるな!」っていうのが根底にある。
これがボタンの掛け違いという可能性があるかな?ってちょっと思って書き始めているの。
しょせん、動機が「『負けないように』ってことでしょ?」っていうのがようちゃん2号の疑っているところなんだよ。
今、中国・韓国が、靖国だとかそういうことを日本に対して声を大にして言うでしょう?
んで、こっちは結局「うるせーバカ」っていう反応をしているけれど、「資本主義の精神」を欠いた日本が「天皇制」を立てたことで、とりあえずうまく行ったことに対しての怨嗟というものが中国・韓国にはあるのかな?ってちょっと思ったわけ。
(北朝鮮は資本主義ではないのでそういう意味では放っておく)
日本には「天皇」があったけれど、「資本主義の精神」を現在も欠いているのは、中国・韓国も一緒かな?って思ったんだよ。
はっきり言うけれど、中国・韓国は「資本主義」ということにおいて日本に比べて「後発」でしょう?。
んで、それってもしかしたら、日本ばかりでなく中国・韓国も精神的支柱に据えるものを持たないってこと…。
本当は、資本主義の萌芽は実は、内的動機である「行動的禁欲」が不可欠なのかもしれないのにね。
この「行動的禁欲」という西欧で育まれた「資本主義の精神」は、一神教から生まれたもので、創造神と個人の一対一の対話から生まれている。
「本当にこの創造神を自分は信じられるのか?」ってね。
ちょっと対決場面を書いてみる。
「てんめー、おまえがおれを作りやがったのか?それは本当か?」
「じゃあ、おれの持つ自我っていうのもおんどれが作ったんかい?それは違うんとちゃうの?」
「この肉体にこの精神なんていう一対一の対応まで、おまえにいちいち決められているなんて考えられん!」
なーんていう、個人の対決が基礎にあるわけなんだよ。
そこから、合理的精神などが生まれ、結局のところ「神は死んだ」っていうところまで論理を叩き上げて行く。
ところが天皇制の場合、最初っからこのような個人の神との対決という葛藤を経ないで、「てんめー、信じやがれ」っていう権力者からの押し付けがあるね。
これって、考えないことを強制しているわけ。
個人の葛藤という思考過程を回避している。
「わたしはだーれ、ここはどこ?今はいつ?神様教えて!」ってやってると、「そんなことはわかりきったことだ、こう考えやがれ!」ってやる。
そんで、押し付けるなら、誰でも自明なことだとは思うけれど、外圧なんていうのがあると便利。
…だったらわかるでしょ?
天皇制を維持するために日本はアメリカの外圧が必要だし、中国・韓国はそう精神的支柱を持たないから、「天皇制」を槍玉に挙げる。
精神的支柱を外の国を責めることで成り立たせている可能性がある。
日本を悪く言うことが、中国・韓国の精神的支柱として使われている可能性があるということ。
だったら、これを「おかしい」っていうことを、どこまで日本は責めることができるのか…?
だって、内的動機がないか、あったとしても「負けないように」って言うところは、そっくりだもの。
(追いつき追い越せ)
耐震強度偽装とかそういうことも「内的動機がない」ということであれば、説明はむずかしいことではないのではないか?って思っている。