『波状言論S改』を読んで日記でこき下ろしたせいで、逆にもう一冊、借りようと思ったのかな?
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他にどんな理由で借りようと思ったのか、思い出せないのね。
もう一度、「波状言論S改」の日記を読み返して、それから書き加えるつもり…。
…読み返した…。…やっぱりダメ…。
社会学っていうのというより社会学者って何もわかっていない(わかろうとしていない)感じ…。
社会学って、宮台真司っていう人が一人勝ちをしているということだけれど、それって至極当たり前の話しということになりそう。
ヒントはこの本に書いてある。
以下↓引用。
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数学基礎論の思想家ゲーデルは「不完全性定理」を証明した人物として知られている。不完全性定理とは簡単にいえば、あるシステムSが正しいかどうかはそのシステム内部では証明不可能だということだ。ゲーデルの凄さは、これを「数学的に」証明してしまったことにある。つまり数学というシステムが「正しい」かどうかは数学的には証明できないということを証明したのが「不完全性定理」なのである。
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以上↑引用。
ちょっと「不完全性定理」を言語的に証明してみる。
…間違いがあれば指摘してくださいね。
「システムS」を単純に「この文章は偽である」と置く。
システムSは真か偽か?って「メタ」概念がないと証明できないらしいよ。
記号論理学っていうらしいんだけれど、ようちゃん2号、おっかなくてこの分野、あまり触れたくない。
ようちゃん2号、「メタ」概念がどうもつかみにくい脳をしているみたいだからね。
コンピューターは無限のテープ(メモリ)とヘッド(CPU)とアルゴリズム(プログラム)で成り立っていて、プログラムっていうのは、結局のところ計算っていうことらしい。
ラッセルではタイプ理論って言ったと思ったけれど、上位階の概念がないと、真偽は判定できない。
計算可能かどうか上位階がないと判定できないということ。
以下↓引用。
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高橋によれば、ゲーデルの概念はチューリングによって自然数を含む一般システムに適用可能であることが証明され、「すべての真理を証明するチューリングマシンは存在しない」と同時に「計算可能性は、チューリングマシンの計算可能性と同等である」という提唱を導くに至ったという。そして、マシンの正しさがマシンの内部では証明できない以上、何者かが外部マシンを操作しなければならない。つまり、アルゴリズムが停止するか否かを決定する人間がいなければならないというのだ。
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引用↑以上。
この先から、社会学者のボロが出るかな?
以下↓引用。
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それゆえにゲーデルは、人間の理性はアルゴリズムに勝るものだと考えた。仮に人間が脳の機能やアルゴリズムに従って生きているなら、機械が人間にとって代わることもできるだろう。しかしながら人間にはチューリングマシンのアルゴリズムが持っているかもしれない矛盾を証明する理性が備わっている、したがって機械と人間は互換不可能だとゲーデルは考えたのだ。
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以上↑引用。
これが社会学の出発点だとしたら、そこから間違っているかもしれない。
理性というのは、そもそも数学的なところから出発しているものだと思うよ。
(勘だけなんだけれどね)
システムが内部でクローズしているというのなら外部から見れば良いということだけれど、そもそもが、クローズしていない可能性がある。
クローズしているかオープンであるか、それがわかるのが人間ということに
はなるかもしれないけれど、それがわかるのは理性ではないんじゃないかな?
データ内部で計算が終わるものなのかどうなのか、数学的理性で解こうとしているのであれば、こんどはそれを含み込んだ上でのシステムにしかなっていないということに気が付かないのかな?
CPUが複数台あれば計算可能と思っているとしか思えないのだけれど…?
より閉じた状態にあるものに関しては、計算が利いて近似値が得られるというだけのことだということがわからないかな?
宮台はそのシステム(社会学)、あるいは理性というところから外に出ようとしているから、一人勝ちしているということになるだけだな。
その分、テープというか処理しなくてはならないデータは多くなるけれどね。
そしてデータが多い(外に出られる)可能性が充分にあるのだとすると、そもそもシステム自体、クローズしていないことを示しているだけのような気がする。
そしてこれがようちゃん2号たちが生きる本物の社会ということになるのだと思う。
うーん、システムを把握するのが人間の理性だと規定するところに現在の社会学の限界があるという感じ…。
視点を変えてみればわかることだと思うんだけれど、個人の人生が無限のテープだとして、それをプログラムに従って計算しているのが脳。
脳がテープを最初から読んで、自分の現時点までの振り返りをするとする。
何らかの普遍性が見えるかもしれない。
じゃあ、こんどはそれで、これから起きる事について全部その普遍性で対処しきれるか?ということだな。
しきれないとなるとまた最初から、対処できなかったことの起きた時点までを含むテープを読むことになるでしょう?
そしてあらたな普遍性が見える?
見えたように見えるだけで、データが決定的に少ないかもしれない。
ところが社会学者はそれ以上データを入れないようにするってやるかな?
それとか、システムがクローズしていると見たがる。
循環論であることを証明したがるというのもそういうことかな?
そんな傾向があるのではないかな?
うーん、もうちょっと書く。
マルクスの凄いところは、資本主義が発達すると、社会主義になるとしたところだと思うのね。
資本主義というシステムが「閉じていない」ということを指摘したというところが見るべきところなんだと思う。
それを閉じたシステムと見て、「そんだったら先取りして無理やりにでも導入しさえすればうまく行くだろう」と勘違いして社会主義にしたバカがいて、そのバカの失敗を見て「ほれ見たことか、だから社会主義というシステムはダメだと証明された。」ってやってるだけ。
(資本主義が成熟するという過程を経て、社会主義になるとは捉えないんだね)
社会主義国がうまく行っていると思われた時期に、まねをして革命を起せば実現できるって、バカに追従するバカというより、ものを見ないバカ。
そんなことをやっていて、あれあれ社会主義国がポシャったから、そもそも日本は資本主義の精神を伴った資本主義でさえないということが今も見えていない。
(見えていないということを人に見られたくないから、わかったような理論付けをするのかもしれない。あるいはシステムが開いているいることを見せたくないがための社会学者の仕掛けた罠に大衆が見事にはまり込んでいる?)
もしかしたら、マルクスは資本主義の精神を欠いた資本主義システムだったらどうなるか、正確にシュミレーションし得たかもしれないと思う。
社会学者が見るべきはシステムが閉じているか否かについてだと思う。
それなのにシステム論として閉じ込めようとするんだよね。
こういうことを疑ってみて、思いっきりシャッフルするのが社会学なんじゃないかな?って思うんだけれど…。
…まったくの勘なんだけれどね。
ここから先は、本当は投稿欄に書くようなことなのかもしれないのだけれど、こんなことをつらつら書いているのは、自身のCPUを疑いたいからなのね。
今までの経験値「メモリ」の振り返りができてきたということなのかな?
振り返りで計算式が蓄積されたかもしれないけれど、それよりか、よけいな囚われから脱出してきつつあるような気がすることが大きいのではないかと思う。
(囚われっていうのはコンピュータでいうとバグっていうことになるかな?)
なんで計算式やバグを取り除くことをやっていたかということになるのだけれど、ちょっと自信のないことがあるからかな?
それは「愛」なのね。
俺(←恥ずかしいから「俺」って書くのかな?)、「無い」とわかっているから欲しいかな?
どうも、このデータが少ない感じだし、バグがあるとよけい進めない感じ…。
そんで、お手軽にどこかから持ってくるものではないし、金払って教えてもらうものでもない感じ。
そうか、無いことがわかることが、コンピュータにはできないことなのかな?
まして、閉じてなんかいないんだろうなって思うのね。
閉じていないとしたら、つまりは一回性のものなんだとも思う。
俺、経験値で捌けるような恋愛っていうの、求めてはいない。
ところが、たいていの人は経験値の蓄積でいい恋愛ができると思っているみたい。
そういうところにいる限り、経験値で捌ける程度の恋愛しか手に入れることができないのは自明の理だと思うのだけれど…。
俺、そういう位置にいる女性となにかを作り出せるとは思っていないんだな。
「愛」って、俺にとっての本当の上位階っていうか「メタ」概念かもしれないのね。
充分その可能性があるし、苦手だし、へたくそだということもわかっているのね。
でも、そっちに進みたいの。