4人の書き手による憲法論だよ。
複数日記にしようと思うので、タイトルには取り上げる人の名を著者として揚げた。
先日分の日記『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』とすごく呼応する部分もある。
だからと言って、あんまり構成を考えたくはないな。
なんたって日記なんだからね。
著者のまえがきの一部を引用↓以下。
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どこかで戦後六十年間続いた「護憲・改憲」の二元論的スキームから逃れ出なければならないという判断は譲れない。
私たちが本書で目指したのは、護憲・改憲の二種類の「原理主義」のいずれにも回収されないような憲法論を書くことである。
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以上↑引用。
「否定の否定はその空間を強める。強めている空間は何か?それが見たい」
ということがようちゃん2号の根底にはあるみたい。
(こういうのが構造主義でいうところの「構造」なんじゃないかな?)
引用の文章では「原理主義」とばっさり表現されているけれど、じゃあそれが、どんな空間を強めているのか?
それが本文にあると思ったので、引用↓以下。
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戦後の日本人は憲法九条と自衛隊の「不整合」に苦しんできたという言葉づかいに私たちは今まで慣れ親しんでいる。この点については、護憲派改憲派を問わず論者たちはみごとに一致している。
憲法九条の法理と自衛隊の現実の間には埋め難い乖離があり、これを放置しておくことはできないという話型を彼らは共有している。
(中略)
だが、「憲法九条と自衛隊のあいだにはなんの矛盾もない」という前提から出発する議論はありえなかったのだろうか?そもそも、そのような前提のお妥当性を検証する議論を戦後の日本人はしたことがあったのだろうか?
わたしの知る限り、そのようなことを論じた人はいない。
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以上↑引用。
「なんの矛盾もない」と見た時に初めて、この二つが誰にとって矛盾がないかという視点を手に入れられるかもしれない。
著者が書いているけれど、実はアメリカにとって一番矛盾がないんだね。
こういう観点って、人を問題にするのではなく問題を問題と見るという「ナラティブ・セラピー」というところに通じるかな?(こじつけ…?トラックバック)
「矛盾がある」というアプローチは「矛盾があるのは、だれそれが悪い、なにがしがあるから悪い」っていう、悪者を見つけることの空間を強めているかもしれない。
そして、悪者と名指しされるのは、常に弱いものということになるかな?