ことばの花束(2003/8~2004/3)

ことばの花束


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あなたのことば通じていますか

~手話通訳者のひとりごと~



人は自分の気持ちを伝えたい時、美しい花束を贈るときがあります。その時「ことば」はほとんど要りません。
相手への思いを胸に花を選び、束ねられた花が思いを代弁してくれるから。
でもあなたの思いが伝わらなかったことはありませんか。
日々の生活では花束でなく、人は言葉(日本語、英語・・)というコミュニケーションの伝達手段をつかいます。
 私は手話という言葉を使って耳の聞こえない人と話します。手話は目で見る言葉ですからいつも相手と目と目と合わせて話します。しかし通じないことも多く、伝えることの難しさと同時に日本語の難しさを、毎日痛感しています。
自分が選んだ‘ことばの花束’を送ったのに、相手に届かず枯れてしまうこともたびたび。手話ではなく、日本語でどんな言葉が誰に伝わらないのか、どうすれば伝わるのかを考えていきたいと思っています。
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ことばは流れる 「流れに棹さす」 2004年03月30日(火)

 夏目漱石の小説にある「・・・情に棹させば流される・・」この意味は「流れにのる」で「追い風にのる」と一緒の意味ですが、間違って「流れに逆らう」ととらえている人のほうが多いことばらしいです。
平成14年の調査で正しく理解しているのは12.4%、間違って覚えている人は63.6%とか。
 私の電子辞書の広辞苑には「時流に逆らう意に誤用することがある」と親切にかいてあります。
誤用の方が多くなると、こちらが正しいとなるのでしょうか?それともあくまでも正しいのは「時流にのる」なのでしょうか。多数決で決めることではないですが。
とにかく正しい意味で使った人は、多くの人に通じず、間違って使った人が多くの人に通じるということですね。
こんなことを知ってしまった私は通じる人が多いほうで使うべきか、通じないかも知れないと思いつつ、あくまで正しい意味で使うべきか、悩みます。こうして言葉は死語になった行くのでしょうか。それも淋しいですね。

花束のパリの街の広告 03月15日(月)

パリの街の中にある広告が増え続け、外観を悪くしていると聞きました。パリに行ったことのない私はこの街は広告の看板などほとんど無いように思っていました。(映画からですが)
日本では空いているところは、全て広告で埋め尽くされそうな感じです。地下鉄の電車の広告が、時々一つの会社のもので埋め尽くされているのをみます。電車の外も中も赤だったり、黄色だったり。過日電車の中の手すりを持ったら、目線のところに電池のラベルがぐるっと巻いてあり、まるでそこに電池がはめ込んであるように見え、こんな所までと、アイデアに感心するやら、ここまでするの?と商魂に呆れるやらでした。
街の広告があふれんばかりの所が多くなり、やはり目も頭も疲れてしまいます。現代人はストレスが・・・と言われますが、こんなことも一因では?と思ってしまいます。
色とりどりの花束より、一色でまとめた方が私は好きです。

役所とのコミュニケーション 03月02日(火)

 確定申告に行ってきました。昨日申告書を書くためにマニュアルと格闘しました。毎年同じことなのですが、一年に一回のことでまた忘れていることが多いのです。
「タッチパネル」という言葉を聞いていましたが、最初から自分で入れていくものと思って、間違っては後ろの人に迷惑だしと思い、例年のように手書きしたものを持って行きました。
ところがこの「タッチパネル」は私が勝手に想像していたものとは大違い。収入など数字を記入して持っていけば、税務署の人が、全てやってくれて、計算は入力してあるソフトで瞬時に出てきて、申告書にプリントしてくれるのです。
昨日の悪戦苦闘はなんだったのか・・・
税務署の人に聞いてみました「こんな方法で、できることを
説明書のどこかに明記してあったのですか?」答えは「ない」 
きっと書いてあれば自分で計算しないで、みんな持っていくだろうから、税務署の人は大変、だから書かないのだと納得。
お役所と市民の間のコミュニケーションっていつもこんなのですね。昨日の疲れがどっと出てきました。

今日は168年に一度の日 02月29日(日)

 今日はうるう年の2月29日であり、申年、大安、日曜日が重なった珍しい日で、168年に一回ある日だそうです。
しかしそれがどうしたのか?
「申年に赤い肌着を贈ったり、贈られて身につけると病が去る(サル)」という言い伝えがあるらしい。‘らしい’というのは私には経験がなく、聞いたことがあるような、ないよいような・・・です。
根拠があるようには思えないが、こんな言い伝えが日本にはたくさんあります。でもこのようなことが親から子へ孫へと、家庭の中で伝えられていくのは、暖かい雰囲気が感じられます。小さな花束がいったり、来たりのような。

話しことばの講座の通信添削 02月25日(水)

 こんなPRを見た。講座を受けて自分の話し方を添削してもらうなど、面倒なことと私は思ってしまいました。
でもあちこちで、話し方講座は花盛りです。コミュニケーション力を高める講座も今やいっぱいあります。
人間は、否日本人はいつから話し方まで、お金を払って学ばなければならなくなったのでしょうか。
私は手話通訳を経験して、自分の話し方を考えるより以前の問題で、話したことばが相手にきちんと伝わったかどうかを知るためのアンテナの立て方、磨き方が大切と感じています。どなたかが1日に1回、五感を磨くことを勧めていました。五体満足ですといろいろな感覚が助け合うので、「磨く」という感覚は失っています。しかし一つでも欠けると、それを補うために他の感覚をより磨かなければならないのです。もう一度五感を意識してみませんか。

これからはアウトプット型教育 01月04日(日)

 いろいろな分野の人(食品、薬、機械・・・)が集まってのリーダー養成講座の様子をたまたまラジオで聞いた。
自分の失敗を表現するというのがあり、原因ー行動ー結果を示し、対処方法を皆に伝える。その表現方法が大切で、違う分野の人にもわかるようにことばだけでなく、絵なども使って工夫する。きちんと伝わると、今まで他人事と思って聞こうともしなかった他の分野の失敗が、自分の仕事にも関連していることが、学習できるという。
故にこれからは情報、知識をインプットしているだけでなく、それを頭の中で考え、整理し表現するという出力能力が大切という話だった。
 以前、70歳代の耳の聞こえない夫婦の奥さん(日本語はかなり出来る)が入院。夫(日本語力ほとんどなし)に家から持ってきてほしいものを一つ一つ絵に描いて頼んでいた。絵が下手な私はこんなコミュニケーション方法は出来ないなと見ていたことを思い出しながらラジオを聞いていた。
日本語をある程度獲得してしまうとこれだけで通じさせようとし、通じていると思い込んでいる。いろいろな方法を駆使することを忘れてしまう。
花束も赤いバラの回りに白いかすみ草があって、バラに託した自分の心をよりよくアウトプット出来るのかもしれません。

「見ざる・聞かざる・言わざる」 01月02日(金)

 小さい時、よく親から言われた言葉です。
昔は地域社会で連帯感が強く、否、強すぎて余り隣近所のことに口を出すなという戒めのことばだった。しかし現在は連帯感も無いのにこの「見ざる、聞かざる、言わざる」のおサルさんが多すぎ、孤立の中でいることに安心感をもっているらしい。
申年にこんなおサルさんが更に増えないように孤立より連帯できる人間を育てて欲しいと願っています。
 箱根駅伝の選手や関係者の皆さんは社会に出ても連帯の輪を作れる素晴らしい人になるだろうとの思いも込めて応援します。

大切な人へことばの花束を 2004年01月01日(木)

 「日本」「きずな」年末から元旦に見聞きしたことばです。
自分の国のことを一人一人が真剣に考えなければならない日本の現状と、周りとのきずなを絶って一人でいることを平安とすることの危なっかしさへの警告でしょうか。
 人間は一人で生きているのではないことを再認識し、きずなをもう一度つなぎ、太くすることが大切です。
人間は人とのつながりが多いほど心が成長するように感じます。大人だけではなく、赤ちゃんも子供も。
そのためにコミュニケーションが大切で、その道具のことばの力を高めることを更に考えていきたいと思っています。
 自分の大切な人へ心を伝えることばの花束を贈り続けたいです。

心を伝える努力を! 12月31日(水)

 今年最後の日で、朝からテレビはこの1年のニュースを報じていた。こどもの痛ましい事件にはまたまた涙です。神戸の淳くん事件から我々大人は何も変えることをしなかったのか、できなかったのかと考え込んでしまいました。
 我が家にも「おれおれ詐欺」の電話はきたし、「有料番組を見た」といってお金を請求する脅しの葉書も。そして毎日「迷惑メール」がはいる。いったいどんな人間がこんなことをするのかと思う。日本人の心の何かがおかしくなっている。
日本はどうなってしまうのかと不安です。
 もう一度、人と人とのつながりを強く、太くしたいです。
ことばは心を伝える道具。家庭で、学校で、職場で、そして
大人から子供へ心を伝える努力をしていきたいものです。

小泉首相「話せばわかるもんじゃないね」 12月18日(木)

 イラク派遣をめぐる審査終了後の首相のことばです。
私も手話にかかわり、聞こえない人と関わって「話せばわかるもんじゃない」という事態にいやというほど出会っています。ことば(日本語も手話も)を駆使して相手に説明する。Aのことばで伝わらなければ、別のことばBを選んで、それでも分ってもらえない時は「例えば・・・」と具体例をあげて。でもわかってもらえない場合も多々。
ことばを伝えることは簡単だが意味、内容、概念などを理解するのに限界がある場合もあることを知った。
故に自分が話すことが相手に分ってもらえているのかどうか、いつもアンテナを張りながら話す癖がついてしまった。
 小泉首相の周りは言語力や知識の豊富な博学の人ばかりで、その中での話しで、我々レベルで考えてはいけないのでしょうが、「話せばわかるように話すっていうのは実に難しい」(首相曰く)のです。

モーツアルトと新酒 12月16日(火)

 ある酒蔵で酒を熟成させている時モーツアルトの曲を流しているとのこと。ベートーベンでもヴィヴァルディでもなくモーツアルトに限るらしい。そうすると一層芳醇な新酒ができるとのこと。
以前レタスのハウスにも音楽を流していた。科学的根拠があるのだろうか?音というのは音波とか音圧というのがあるから、その微妙な現象に酒やレタスが反応するのだろうか?
それとも心落ち着く曲が流れているとそこで働く人が穏やかに酒やレタスと接することができる効果なのだろうか?
博識の反対側の私にはわかりませんが、手にしたお酒がどんな曲を聴いていたのかな?と想像するのは楽しいことです。

けいたい(携帯)からケータイへ 12月12日(金)

 「ケータイ」が最初に世に出てきた時は「携帯電話」だった。いつから「ケータイ」とカタカナで表記するようになったのか。「携帯電話」は過去のものになっていくのか。
「ケータイライフ」から「ケータイ文化」という言葉まで産まれている。 
 確かに書き言葉の「携帯」は字画が多く書くのに面倒だし、発音も「けい」より「ケー」の方が易しい。
「携帯電話」という日本語が「ケータイ」と変化して行くのを目の前で実体験している感があります。
 「ケータイ」はもはや電話だけの機能ではなくなっているという機器の変化が第一の理由でしょう。手話も「電話」や「パチンコ」など機器の形、使う時の手の動きが変わると自然に変わっていきます。「ケータイ」の手話はアンテナを出した形で表現すると決まったばかりなのに、現在のケータイはほとんどの場所で電波状態が良く、アンテナなどもう引っ張り出さなくてもよくなっている。技術の進歩についていくのに人も言葉も遅れそうです。

飲みニケーションの効用 12月11日(木)

 忘年会真っ盛り。職場や趣味の仲間などいろいろな年齢の人と親しくコミュニケーションできる場として楽しい習慣だとは思う。しかしお酒が入るので、個々アルコールの分解度の差があり、楽しみに温度差が出てくる。
 お酒に強い人は飲んでも難しい話(イラク派遣はどう思うか?とか)でも平気。しかし弱い人にとっては苦しくなっているのだから、答えに頭を使わねばならないような話はやめて!といいたくなる。いい加減に答えていると怒り出したり。中途半端にしか飲めない私は場によって、ここは飲む、ここでは飲まないと初めに決めている。本当はすこしは飲みたいのですが。
飲みニケーションは相手のお酒の強弱を思いやってこそ効果があると知ってください。酒豪の方々へ。

「頬に当てて聞くケータイ」 12月10日(水)

 昨日音を聞くということは「耳から入った音が鼓膜の空気振動から耳小骨の骨振動、そして蝸牛で電気信号にかえて脳へ・・・」と書いた。
今朝の新聞にケータイが音を骨振動に変えて出し、それを頬に当てると、その振動が頭蓋骨から耳小骨に伝わり、電気信号に変わって脳まで伝わって聞こえる。そんなケータイが12月下旬発売されるとあった。
 外耳や中耳に障害があって聞き難くなった人はこれで電話が使えるようになる。又、周りが騒がしい時もこの方法で聞けばいいらしい。
ちなみに人工内耳は音をいきなり電気信号に変える。
 音は耳の穴から入るものと当たり前に考えていたが全く違った方法があると知った。どのように聞こえるのか(当然普通に聞こえることは頭では理解できるが)体験してみたい。
これからのケータイは場所にあわせて耳に当てたり、頬に当てたりするのでしょうね。

道路表示「止まれ」から「とまる」 12月05日(金)

 発想の転換は何時でも何事にも大切なこと。
毎日の生活で目にしていて当たり前と思っている道路の「止まれ」の白い大きな文字。誰に「止まれ」と命令されていたのか?
 福井県だと思うがどこかの街で、これを「とまる」に変えたというニュースがあった。変えた理由は聞き逃したが、私は以前から「止まれ」の‘止’の漢字が読めない小さな子や、外国から来た人がいるのではないかと思っていた。
学校の近くの横断歩道の手前に両足のマークがある。また日本の道路なのに「STOP」があった。こんなのより大きく「とまる」の方がみんながわかっていいと思った。
この発想の転換に拍手。

マス・コミュニケーションとコミュニケーション 12月01日(月)

 今日は地上デジタル放送が始まった記念すべき日。
我が家にもこのデジタル波が来ているはずだが、目に見えないし、キャッチできるテレビもないので今のところ関係なし。今まで以上に沢山の情報を得られ、「双方向の・・・」といわれている。でもこのテレビとはお互いに心の通い合うコミュニケーションは出来ない。
 現在の日本では職場、学校、地域で「自助、自立」という名の「自由」競争によって人間がお互いにバラバラに分断、対立させられ、孤立化が広がり、深まっている。
‘双方向の’デジタルテレビ相手にひきこもりが増えないように願う。
 豊かな人間関係を作るためには「目と頭と心」を磨くことが必要。また言葉は共感がないと発達しない。マスコミからだけでなく人と人とのコニュニケーションで頭と心を磨くことを忘れないようにしましょう。

役所主催の講演会は無料? 11月28日(金)

 今、公的機関の主催する多くの講演会などに手話通訳が付く。聞こえない人が何処へ行っても情報保障があるのはいいこと。
 講演者でなく、主催者の挨拶で「今日はこんな素晴らしい話を皆さんは無料で聞けて・・・」と言う人がいる。
私は「違うでしょう」とむかっとしながら`無料’の手話をしかたなしにする。入場は無料でもこの講演にかかる費用は全て我々の払った税金からなのです。こんな「馬鹿なことを言っているあなたの給料も税金からなのです。」と言いたいのを我慢して通訳に徹する。当然ですが。
 手話通訳はほとんどが同時通訳なので、話し手が言った日本語を適切な手話に、またろう者の表した手話をその文脈にぴったりの日本語に瞬時に変えなければならない。
こんなことを長年やっていると一語一語が適切かどうかいつも考えながら人の話を聞く癖がついてしまい、聞くことも疲れるのです。

音楽の花束 11月27日(木)

 今日、ヴァイオリニストの千住真理子さんのコンサートを聞いた。NHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」の曲を演奏され、音楽家として以外でも活躍されている美しくて素敵な人。300年前の名器ストラディバリウスをお持ちであることは知っていたが、まさかそのヴァイオリンを持ってきてくださるとは思ってもいなかったので感激。
広いホールを隅から隅まで包み込む音色をどう表現したらいいのか言葉が見つかりません。感動しました。
 その後で見た映画「戦場のピアニスト」の中の荒廃した街の崩れかかったビルの中で主人公が弾く戦争の悲しみから怒りへの曲も胸に突き刺さりました。
 日頃‘音の無い世界’の人と接している私は、こんな音楽を楽しむことが出来る耳があることに感謝。今日は自分に音楽の花束を贈った幸せな日でした。

木守り草花と会話 11月24日(月)

 最近犬の鳴き声を翻訳するものがつくられ、次は猫とか。
草花や木に話しかけながら、育てている人は多いと思う。
そして相手(この場合花や木)とコミュニケーションできたと感じた経験を2つや3つお持ちの方も沢山いると思う。
 私はぶどうの木(ベリーA)からメッセージをもらいました。実を食べた後、生ごみとして土に埋めたら、芽が出て、毎年フェンスを7~8m這って茂るのに実がならない。
日当たりも悪いので諦め、地上50cmのところでプツンと切った。ところが翌年枝をまたまた伸ばし、なんと100房はあるのではというくらい実った。
枯らそうとした私に腹を立てたのでしょう。「ごめんね!」
と謝って、その後剪定の仕方の本を読み、大切にしているが、あれから10年たっても房の数は3~4個あればいいほう。
しかし私とぶどうの木はコミュニケーションできるので、(私だけがそう思っているのか??)もう二度と切り倒せないのです。

:柿の木に感謝 11月23日(日)

 今日は勤労感謝の日。
日本は昔から豊かな自然と共生してきた。大木など神の宿る木と崇めることも多い。
 柿の木が落葉し、実も熟し、収穫が終わったころ、木の上のほうに2~3個残されているのを見る。これを「木守り」と言って、今年も沢山収穫させてもらった感謝と、来年もよく実るようにとのお願いとのこと。
日本には木々にも勤労を感謝する心があり、その習慣が残っている。
 家庭の中でも昔は大黒柱の父親に感謝・・・という感じだったが、今は皆それぞれ役割分担しているという考え方のほうが多いでしょう。
支え合っている人に「ありがとう」を一杯束ねたことばの花束を贈りましょう。

素敵なことを見つける力 11月22日(土)

 我々の目は毎日沢山のものを見、耳からも沢山の音や言葉が入ってくる。1日が終わりその日に感動したことを日記に書こうと思っても「今日は何もなかった」とペンが動かず状態が多い。たくさんの情報を脳で、ハートで見ていないのである。
 耳の聞こえない人は隣の部屋でやかんの湯が沸いたのが、蒸気のにおいでわかり、空気のしめり感で分ると言う。
私はやかんがピーと音を出してくれないと分らない。
目の見えない人も聴覚はもちろん、嗅覚も触覚も鋭い。
健常者はすべての感覚に頼ってそれらを鋭くする努力を怠っている。いまさら磨くのは無理としても、せめてハートの感覚(?)を鋭くさせたい。
何を伝えるかということは何を見ているかということ。
たくさんのものを見て、たくさんのことを伝えていくことは
大切なこと。できれば良いことを伝えたいので、素敵なことを見つける力を育てたいものです。

ことば「プライバシー」もほどほどに 11月21日(金)

 手話通訳に行くと病院ではその人の病気のこと、学校の個人面談ではその人の子供の成績などを知ってしまう。これらは絶対に口外してはいけないプライバシーです。
しかし時折この‘プライバシー’の範囲が過剰に広くなり、近所との付き合いまで「そこの家庭のプライバシーの問題だから・・・」と距離をおいて付き合うことが多い。
その距離がだんだん長くなってきている。
昔はよその家に半歩というか一歩も突っ込むおせっかいな人がいて、うるさがられつつ地域を見守っていたように思う。
 幼稚園児まで防犯ブザーを持って外へ行かねばならない社会は異常。「プライバシー」ということばの中にすべて入れて隠さないで、むかしの良いところを見直して、安全な地域社会を作り直していきたいものです。

痛みの表現 ‘ちくちく’‘ずきずき’‘がんがん’ 11月17日(月)

 擬態語や擬声語は聞こえない人にとって習得できにくい言葉で、医者から「どんな痛みですか?」と聞かれて答えに困る人も多い。
しかし聞こえる人にとっても難しい言葉です。
 痛みの表現はいろいろあり、小さい子供に「ちくちく痛いの?」と聞いても、「ちくちく」が分らず、とりあえず痛いから「うん」と答える。この時お母さんの‘ちくちく’の
痛みと子供が今感じている痛みは異なっているかも知れません。
大きくなって辞書などから日本語として使われている‘ちくちく’の意味が自分の習得していた概念と違えば、そこて修正できる。しかし修正しないままの人も居るかもしれない。
「ずきずき痛い」が自分と相手と痛み方が異なっているかも知れないのです。
 最近若い人と話していると通じない擬態語が多いことを痛感しています。
秋です。木の葉の‘はらはら’を見ながら、擬態語の行く末に‘はらはら’しています。

犬との会話は犬の老後のために手話で 11月16日(日)

 新聞に高齢の犬の介護問題が載っていた。
家族の一員として大切にされ、医療も充分で超高齢のワンちゃんが増えているとのこと。
私の友人の犬も超高齢。まず耳が遠くなり、家人が帰宅しても玄関にとんで迎えてくれることもなく、今までのように声でのコミュニケーションが出来なくなった。
次に目が悪くなり、散歩も溝に落ちないように気を使う。
現在おもらしもあるので、1日4時間犬の介護に使っているとのこと。犬も彼女も大変・・・。
 もう一方耳の聞こえない夫婦宅の犬。
声での会話は最初から出来ないので、手話で犬に話しかけていた。
家の中では声がない分、この犬は音に対してとても敏感。(元気な犬は皆そうだろうが)私が手話で話しながら声を出すと吠え続け、手話だけにしたら安心してくれた。
 ドアの外に誰かが近づくと吠えて来客を伝えるし、目覚ましの音、FAXの音などを飼い主に知らせてくれる。(聴導犬の役目を自然にやっていた。)この犬も高齢になり耳が聞こえなくなってきた。
いろいろな音への反応はなくなってしまったが、飼い主との会話は、ずっーと手話でできていて、
このろう夫婦は「手話で育ててよかった」と言っていた。
犬との会話は手話を知らなくても声だけでなく、すべてにサインを付けて育てるといいですよ。

国会議員の「国民の皆さんのために・・・」 11月10日(月)

総選挙が終わり、この体制でどう経済も心も回復し、将来に夢を持てるようになるのか・・・は、あちこちで議論沸騰。
 いつも気になる言葉「国民の皆さんのために」
これを聞くと議員の方々は一段上の別の場所にいて、議員以外の国民に何かする(時には命までかけてくださって)というニュアンスに取れてしまうのです。
今朝、若手の議員の「私は国民の目で・・・」。これもひっかかる。あなたも国民です。
日本語って難しいですね。助詞一つで意味が変わってくる。
「私たちの日本を・・・」何かいい言葉ありませんか?
ともかく議員の方々も日本国民であり、納税者であることを
忘れないでください。
‘福祉’という名のもとで無駄な使い方を沢山目にします。カットでなく、本当に必要なところに充分にと願って
います。

携帯で一句、父娘のコミュニケーション 11月03日(月)

携帯電話は今や‘電話’という名前でいいのか?と思うほど様々な機能がある。私は耳の聞こえない人は電話が使えないので、メールを使うためにが主たる目的としている。
今朝テレビで父と娘の携帯の使い方を見た。お互い口に出して言いにくいことをメールで。そして今では短歌でやり取り。5・7・5の上の句を送って7・7の下の句で答える。
なかなかいいなと思った。
父と娘、父と息子、成人するとなかなかコミュニケーションがとれない。こんな寂しいお父さんって多いですね。でもこんなやり取りができるのもいいかな。
お父さんだって花束を贈ったり貰う輪に本当は入りたいのだけど入り方に不器用な人が多いですものね。

素敵な詩で日記を 10月27日(月)

小椋桂氏の数々のヒット曲の詩は「自分の日記」だそうです。自分の日記で多くの人が共感し、感動するなんて羨ましいかぎりです。
私の一番好きな詩です。
  二番目に言いたいことしか
  人には言えない
  
  一番言いたいことが
  言えないもどかしさに
  絶えられないから
  絵を描くのかも知れない
  うたを歌うのかも知れない

  それが言えるような気がして
  人が恋しいのかも知れない (星野富弘)

私には絵を描くこともできず、音楽で伝えることもできず、
なんとか‘ことば’で一番言いたいことが伝わるように、そして出来る限り美しい‘花束’になるようにと小さい頭を酷使しております。

国会議員の方々のはなしことば 10月19日(日)

石原国交相と日本道路公団の藤井総裁とのやりとりのことばは語彙が豊富過ぎますね。
「・・・重大な‘瑕疵’がある」など。これら全て書きことばでなく、話し言葉(50音の組み合わせ)で耳に入ってくる。
私にはすぐに頭の中で漢字変換できるのは、`菓子、歌詞、河岸、下肢’ぐらい。結局意味が分からず、???となる。(書き言葉なら調べることもできるが)
どうして議員のみなさまはこんなに語彙が豊富なんでしょう。
頭のいい人は言語力というか語彙数が豊富といわれるが、それとコミュニケーション力は別の話なんだとつくづく思う。
話し言葉は凡人にわかる言葉を選んで使っていただきたい。
テレビに映像と共に、言葉もそのまま流れるのですから。
あまりにも高価なランの花束を差し出されても、畏れ多くて
受け取れないのです。

ことばの力 ラジオとテレビ 10月07日(火)

ラジオのリスナーを増やすために民放101社が結束してキャンペーン「ラジオの力」を展開する。今や、ラジオ人口は7.8%だそうだ。
私は結構ラジオを聴く。何かしながら聞いている。
以前、手術入院をした時、病室でラジオと聞こうと持ち込んだ。ラジオは目を閉じていても聞けるのでテレビより楽だと思った。しかし、しかし、ラジオを術後の体で聞くのはとてもつかれるのです。一方テレビは疲れないことに初めて気がついた。どうもラジオは聞きながら、映像を自分の頭の中に作っていく。テレビは映像と音声が入ってくるので、考えなくていいらしい。むかしテレビ時代を一億総白痴化って言われましたっけ。

相談員のはしご 10月06日(月)

今日、事故の後遺症で体の具合が悪く、家事をすることができなくなっているある聞こえない人の通訳に行った。
家事援助のサービスを受けるにはどうすれば良いのかという相談。一番目は病院のソーシャルワーカー、二番目が介護保険の相談員、三番目が障害者の支援費制度の担当者、四番目が支援費申請代行事業者。1,2,3の人に言われたことは「私はこの部分は専門ではないのでわかりません。」リンクしながら4人目にいった。この間3時間半。一番目の人が「四番目に行ってください」と言ってくれたら、1時間弱で終わったはずだし、こんな問題はすべてに関係してくるのだから、すべての知識を持っている人が一人いればいいのに・・・と思った。沢山の税金が無駄使いされたと感じてしまった私です。

「すみません」韓国と日本 10月01日(水)

韓国の人が日本に来て、‘いいな’と思ったことの一つ。
混んでいるところをぬって行かねばならない時、「すみません」と声をかけていくとか、濡れた傘を開いたら周りの人に水がかかってしまった時、「すみません」と声をだしてあやまること。えっ!韓国ではすみませんと言わないの?と聞いたら、もちろん言う人もいるが、あまり言わないとのこと。
彼女曰く「韓国の人は自分のことしか考えていない、日本人は周りのことをいつも考えている。」
でも日本も最近こんな言葉が減っている。韓国流にならなくともいいのに。他人とのコミュニケーションの初めの一歩のような「すみません」は大事にしたい。
しかしこの‘すみません’を手話の<すみません>にすべて変えて表していると、ろう者から「健聴者は謝ってばかりいる人間」と誤解されることがあるのです。日本語も手話も難しい!

本音と建てまえ 09月29日(月)

外国から来た人が日本人とのコミュニケーションで悩む中の一つは本音と建てまえの差であるという。
外国人がゴルフに誘ったら、日本人が「私は下手で・・・」
そのまま信じて配慮したら、すご腕だったなど。
ろう者の中でも聞こえる人を外国人から見た日本人のように感じる人が多くいる。
そして「下手と言っていたのに、嘘つき!」ということになる。
本音と建てまえの差が大きければ大きいほど、人間性も否定されてしまうこともある。
コミュニケーションは常に相手を考えてしてこそ、通じるのである。

慈善最快楽 09月28日(日)

こんな言葉が中国にあるという。
現在日本では‘慈善’という言葉はほとんど使われなくなり、‘ボランティア’が多い。もちろん意味も違って、手話では‘ボランティア’の表現は‘共に歩く’である。
与えられることは‘快楽’であるのは当然だが、与えることに‘快楽’を感じないと‘迷惑ボラ’になってしまいがち。
知人で80歳をこえてなお、障害者施設の喫茶店でボランティアをしている人がいる。真っ白のフリルつきエプロンで、可愛い!そしていつも腰が低い。
話しているといつも野菊の花束をいただいた気持ちになる。
やさしくそれでいて凛としていて、長持ちもするのである。
見習いたい人生の先輩です。

街の縁側 09月26日(金)

最近この言葉を見たり、聞いたりする。
昔のように地域でのコミュニケーションの場であった‘井戸端’もなくなり、‘縁側’も街の中ではなくなってきた。
‘隣は何をする人ぞ’と気にもしなく、自分の視界に入る範囲しか見たり、考えたりしなくなってきている。
そのため、小さな地域の些細な問題解決もできず、大事件になってしまうことが多々ある。
その反省から街のあちこちで‘縁側’が作られ始めている。
「あそこの赤ちゃん、夜泣きが続いて若いお母さんが困っている」とか「あそこのおじさん、前の家の人の駐車の仕方に不満を持っている」とか問題が出てこれば‘三人寄れば文殊の知恵’じゃないが、世間話をしながら、悲しい事件になる前に解決法が出てくる。
きれいな大きな花束もいいけど、野に咲く花の2~3本の花束もとても大切なものです。
といっても先日も手話通訳者の仲間とこの‘縁側’ってどう通訳すればいいのか悩んだ。
‘縁側’のもつ意味、概念が分からないのは、ろう者だけでなく、若い人にも分からなくなっているのでは。

声が出なくなったおじさん 09月24日(水)

今日は‘おじさん’です。‘おばさん’でもだれでもいいのですが。
ガンセンターにお見舞いに行くと面会のコーナーで、喉に包帯を巻いた人と面会に来た家族が、黙って座っている光景をなんどもみた。患者さんは手術で声がでない。最初は家族が話しかけている。しかし答えがない会話をしているとどうも続かないらしい。声かけしなくなるのである。きっとガンに打ちひしがれている人をなぐさめ、励ましに遠くから時間をつくって来たのだと思うが、それができず、沈黙のみ。
こんなつらい光景を見るとここで手話を教えようかと思ってしまう。

声が出なくなったおじいさん 09月23日(火)

70から手話を始め、今88歳。声帯の病気で声がでなくなった。今日お見舞いに行ったが、しばらく手話もしていなかったからか、手が動かない。耳は聞こえるので一杯話してあげればいいのだが、声が出せないと周りの人は話しかけを遠慮してしまうらしく、それが寂しいと言う。
本人は新聞を読んだりしていて、頭はしっかりしているのだが。言葉は声だけと思ってしまうと、声がでない人とは、コミュニケーションが無理と勘違いしてしまうのだろうと思って、こんなとき看護士さんも手話ができると良いのにと思って帰ってきた。

地域のコミュニケーション力 09月22日(月)

駐車の仕方が悪いといっていきなり、お隣さんを銃殺。自分も自殺。どうしてこんなことで家族にとっては大切な人が二人亡くならなきゃいけないのか?と思ってしまう。
最近近所付き合いは希薄になっている。そしてまた近所だからこそ言えないこともある。多くが1対1で解決しようとして問題が起こるのではないかと思う。
昔の井戸端会議みたいなものがあり、地域のコミュニケーション力があれば、第3者からそれとなく相手の気持ちを教えられ、解決の方向へいけるが、昨今では、そんな場はなく、2者の直接対決で、悲劇が起こってしまう。
隣近所との本来のコミュニケーションをつくっていくのは
大切だと皆分かっていても、難しい。
私の周りもそうなのです。

村のまつりと都会のまつり 09月20日(土)

秋祭り本番の候です。
今朝のラジオから。どこかの村でまつりの踊りを4歳の子に教えている男の子(5~6年生らしい)の話。
「踊りを小さい子にもきちんと教えないとこの踊りが消えてしまう。でもどうやって教えればいいのか難しい」とのこと。この踊りの歌の歌詞が古く難しいのである。
彼はきっと一生懸命伝え方を考えて教え、こうした体験からコミュニケーション力をつけていくのだろうと思った。
今日は私の地域も祭りです。
しかし街の真ん中のまつりは主催が商店街の方々、そして昔から伝わっているものはなにもなく、バンドが沢山来てすごい音の競演。踊りはよさこいとソーラン。それにこの人たちは全国から来るのです。地域の人は通行止めになったいつもの道路を迂回して買い物です。

‘阿吽’と‘つうかあ’ 09月19日(金)

‘阿吽の呼吸’なんて、もう死語かなとも思うが、二人で演奏したり、歌ったりの時、または、海女さんが海に潜ったとき、船の上のご主人が阿吽の呼吸で命綱を引き上げるなど、まだまだいろいろある。
‘つうかあ’で通じる人をあなたは何人持っていますか?
友達、親子、夫婦、会社の仲間。
夫婦とか親子を考えてみると、一緒にいる時間は昔に比べて
うんと少なくなっている。
ずっと昔は農業、漁業、林業、自営業など夫婦で一日一緒に働くことが多く、同じ体験を毎日していたと思う。
子供も帰宅したら、親の手伝いなどで親と一緒の時間は多かったし、同じ体験もあった。
現代は皆別々のことをしている時間の方が多く、考えていること、体験などが違っている。
‘つうかあ’はだんだん難しくなっている。

アナウンサーのコミュニケーション力 09月18日(木)

あるサッカー中継の担当のアナウンサーの話。
「自分が担当したのをビデオに撮って、一回目は音なしで自分の身振り、手の動かし方をチェック。二回目は音声で伝わる言葉で話しているかをチェックする」とのこと。
伝えるということは身振りや表情などの非言語と言語の二つの方法で伝える。このアナウンサーはきちんと言葉だけでなく、非言語まで気をつけて仕事している。
名前を聞きおとしたのが残念だが、コミュニケーションのプロの話し方をこんな視点で聞いてみるのも勉強になる。

先生のコミュニケーション力 09月17日(水)

今日は総合的学習での指導でちかくの中学校へ行った。指導内容などについては2ヶ月前から担当の先生と私とで打ち合わせを(電話とFAXで)やってきたつもり。
前日になって昨夜TEL有り。「担当者4名のフルネームと住所を教えて欲しい」私「えっ!電話でですか?」
「はい」と先生。電話での言葉で名前、住所の漢字をすべて正確に伝えるのは難しいので「少し待ってください。後でFAXします」
送信後TELあり。「電話番号も教えて欲しい」なら最初から言えばいいのに!(むかっ!)
100人からの名簿からまたまた探して答える。
どんな先生かと思って今日初めて会った。
事前に資料を送付して今日生徒に配布するよう頼んであったのに、印刷していない。
タイムスケジュールを書いた指導内容を作って送ってあるのにその対応がなされいない。
生徒から「また~」の声、声、声。
90分のうちに、この先生は日頃、生徒から棘つきのバラを投げつけられているナ・・と感じた。後で聞いたら先生1年目とのことだったが、とりあえず、だれとでも話せるコミュニケーション力つけてください。新米先生!

これ、それ、あれ 09月16日(火)

年をとると、ものの名前が口から出てこなくなり、これ、それ、あれが頻発。「あのかどのあの木に虫がいた。」
若いときなら、「あのかどってどこの?あの木って何の木?
虫って何の虫?」と問い直す。しかし、年をとると大切な部分のみ問い返す。「虫って?」答え「痛い虫」(刺されれば多くが痛い・・・)「あれで、しておいた。」
[何で何したの?]と問い返しはしない。
家庭の平和のためにここでストップ。私には関係ないと頭の外へ放り出す。会話が成立したようでしていない。
手話の場合はこれ、あれはもとの言葉に戻して表す。
また‘先月’と聞いたら、‘8月’と表し、‘来月’と聞いたら‘10月’と表す。
極力、代名詞などは使わないことが頭にインプットされている。年をとっても、これ、それ、あれを多用しないようにしたい。
こんな言葉の花束は渡してもほとんどゴミ箱に捨てられそうですよ。

老眼鏡と補聴器 09月15日(月)

今日は敬老の日。
人は老眼になったら、老眼鏡をかける。しかし耳が遠くなっても補聴器をつける人はまだ少ない。
老人ホームの職員の人曰く、「耳が遠くなって人と話せなくなると孤立してしまい、食堂にも出てこなくなる。人と会話しなくなるとその結果痴呆が進む。」とのこと。
昔は補聴器の性能も悪く、付けると疲れるという声があった。今は急速に性能が良くなり、耳穴にすっぽりはめ込めるタイプが多い。そして色も透明から、ピンクなどカラフルなのが出てきて、以前の肌色一色から、おしゃれになってきた。補聴器をつけるという感覚が変わってきた。いつか老眼鏡と同様耳が遠くなったら、みんな補聴器をつけるようになったら、高性能のものも安くなると思う。
聞こえなくなっても手話で話せる自分は不要かなと思っても、回りの人も知ってないと使えない・・・。

ナンバーワンとオンリーワン 09月11日(木)

「世界に一つだけの花」の歌詞を手話に変えようと意味を仲間とかんがえていた。もしこの二つを小1に説明するときのことばと小4に説明する時、中学1年に・・・どんな日本語を使って説明するのか。
ナンバーワンは説明し易い。運動会のトップ、成績がトップなど具体例を挙げて説明できる。
オンリーワンを説明するのが難しい。概念は我々仲間は皆分かっていても意味の分かっていない人にどういう日本語を使って説明すればいいのか。
歌詞はとても易しい言葉を使っているのですが、オンリーワンを易しい日本語で説明する難しさにみんな疲れてしまいました。

在宅と居宅 08月28日(木)

役所の説明会の通訳に行くと難しい言葉が多くある。
在宅と居宅。在宅サービスとか、在宅介護は聞くが、在宅サービスの中に居宅療養管理指導とかの言葉がある。
この二つのことばの違いはあるようだ。漢字を見れば意味が分かるが耳から聞いて(ひらがなで入ってくる)意味を瞬時に捉えるのは難しい。在宅でもいいような気がする・・・が。市民に理解してもらえるマニュアルでなければといつも思う。

`もし貸して’??? 08月27日(水)

最近テレビで字幕ではなく、中の会話などを強調するために文字を大きく画面に出すのがある。これを日本語獲得のレベルが低い人が、見て日本語を獲得していく場合がある。
「‘もし貸して’ってどういう意味?」と聞かれた。「その前後はどういう会話だった?」と聞いたがわからず。「どこで見たの?」と聞いたら、テレビのバラエティ番組とのこと。それは「もしかして」だったらしい。
その人は‘もし’は知っているが‘もしかして’は知らなかった。他にお笑い番組の文字で覚えた言葉を意味だけ調べて、使う相手(上司にたいしてなど)を間違ってしまうと
相手に不快感を与えてしまう。尊敬語、謙譲語、丁寧語など
やはり日本語って難しい。

ことわざ、四字熟語使ってますか? 08月25日(月)

言葉はコミュニケーションの手段、道具で知っているだけでなく、使えてこそ、言葉だと思うのですが、これらは受験用になってしまっている感がします。
もちろん書き言葉として理解できる必要はありますが。
 いつごろからか
日常会話に「匙をなげちゃだめ」とか
「鶏口となっても牛後にはならないでほしいな」なんて親が子に使わなくなり、使えなくなってしまった気がします。
でも受験問題には相変わらず出ている。
受験でしっかり学んだ方へお願い!もう一度日常会話に使って日本語を豊かにしてください。

匙(さじ)って何? 08月24日(日)

外国から日本に来た人からの電話。「匙を投げる」の‘匙’ってなに?」との問い合わせ。時々分からない日本語があると聞いてくる。「スプーンのこと」「投げたら危ないね。」「そういう意味ではなく・・・」彼女は日本に来たとき「これから日本語を覚えて母語との通訳者になる」と張り切っていたが6年経って日本語の難しさに`匙を投げた’様子。‘さじ’は今は日本人でもあまり使わなくなっているが、こういう言葉の中に残っている。
漢字があり、ひらがながあり、カタカナがあり、またカタカナで外国語が入りやすく、漢字で漢文からのがあり、と日本語って本当に豊かな言語だけどそれ故にマスターするのが難しいですね。

コーチングって? 08月22日(金)

1昨日のNHK「クローズアップ現代」で「あなたのやる気引き出します」というタイトルの中で‘コーチング’なる職業があること初めて知りました。要はその人のコミュニケーション力をアップさせて、やる気を出させるなりわいらしい。
企業の上司が学んでいた。部下と話す時は視線を同じ位置にするとか、顔を横向けたまま話さないとか、笑顔でとか。視覚言語(手話)を使う人にとっては当たり前のことをお金を出してコーチしてもらう時代なのか・・・
その上司曰く「いままで自分の言葉でしか話していない。その言葉を部下も持っているのか、通じているのかどうかなど
考えたことがなかった。」と。
‘変わるコミュニケーション’‘双方向のコミュニケーション’という言葉があった。
コミュニケーションって一方通行ではなく、双方向をいうのではなかったのか。
上司から部下へ、先生から生徒へ、親から子へだけでなく、
その逆からもことばの花束がいったり、来たりさせたいものです。

上司から部下への花束 08月21日(木)

古いのですが、今年5月25日の朝日新聞に「経営はコミュニケーション」というタイトルでキャノンの御手洗社長が書かれた記事がありました。
「トップの役割は重い。言葉を発し、耳を澄ませ、自分の言葉が届いているかを見定めなければならない。」とこの記事をしめくくってあった。社内でのコミュニケーションの大切さを書いた記事でした。
手話通訳でいつもきちんと通じているか否かを確認する癖の私はうれしくなった。
 社内でもメールで会話してしまうと、その文章(自分の言葉)が相手の心に届いているか否かはわからない。
アイコンタクトがあれば、通じているかどうかは、ほぼ分かります。

否定の否定は肯定・・・難しい! 08月18日(月)

今朝の家人との会話。「ブラスター対策した?」答え「してないはずがない!」答えにホッとしたが‘ない’が二重の言葉って自分はこのごろ使ってないな・・・と。二重否定は肯定の意味でなく、強い否定と間違って取ってしまう人と会話することが多く、意識的にこの言い方は自分で使わないようにしてきた。むかし「私は英語を少ししか話せません。」より「少し話せます。」の方が間違いなく通じると言われた。
 今日本には外国からの人が多くなってきている。
小学校に行くとクラスに2~3人いる。その子供の親と話す時には是非こんなことも気をつけてください。せっかくの親切の花束が届かないことがないように。ああ・・難しい!

心残りと心に残ったこと 08月16日(土)

先日ある人の話を聞いていた時、ドキッとしたこと。
「この前のパーティでの心残りは・・・」と話され、そのパーティを企画したのは自分だったので、何か手落ち?とドキッとして聞いていると、続く話で‘心残り’ではなく、‘心に残ったこと’の意味でした。
この人は‘心に残ったこと’の意味と‘心残り’という言葉が連結されてしまっている。
‘夢の中’と’夢中’は意味が違う。自分はこの意味の違いをどうやっていつ覚えだんだろうと考え込み、いつも「日本語って難しい!」で終わる。

ことばは時代とともに変わる 2003年08月15日(金)

 終戦から58年。日本が変わると共に、ことばも変化。
今日は雨がしとしと降っています。
この‘しとしと’が通じない人が時々いる。‘ざあざあ’や
‘ぽつぽつ’は、通じる。‘かわいい’‘あいらしい’‘いとしい’などが「かわいい!」一語になってきた。
心の微妙な違いを表すことが出来る豊かな日本語は何処へ?と言いたいが、現在はもっといろいろな言葉を覚える必要があるから、一緒かな。プラスとマイナスで。
「ユビキタス社会」と「時空自在」どちらを覚えれはいいのでしょうか。国立国語研究所さま。
新しいことはを獲得していくのも結構大変。



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