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草の根 [全377件]

2011年7月22日楽天プロフィール Add to Google XML

思い浮かぶままに2 残心  (1)

 分野が異なっても共通することは多い。と言うより私の場合は共通しないことの方が少ないと思いこんでいる。

 子供の頃一芸は万芸に通じると言う言葉を聞いて素敵な言葉だと惚れ込んだ。もっとも当時は漠然と根拠もなくそうでもあろうか位にしかおもわなかった。無器用を既に自覚していたから自分にとって好都合な考え方でもあったから。

 果たしてそうなのだろうかと思うたびに、なんとなく思い当たることも多く、いつしかそうなのだと信じ込むようになった。具体的には判然としなくても姿勢とか言ったものには共通すると思うことも多かったので。

 私は真似事ほど書を嗜む。素人の域を出ない程度だが、それでも三十年くらいは即かず離れず継続はしてきた。

 それは今から二十年ほども前だったろうか。剣道の高段者に残心という言葉とその実際の立ち居振る舞い、又何故にそれが大事かということを解説してもらった。

 正直そのころそれが正しい解釈なのかどうか不明だったが、筆の穂先を剣の切っ先に見立てて最後の払いに最後まで気を緩めないように心がけた。

 そして何時かそのことは習い性になって、ついには何故そうするかも忘れて習慣のみ定着していた。
 
 何時か年月が過ぎて教書雑誌の写真版にたまに選ばれた折、批評として必ずと言ってよいほど線条が強い、最後まで筆力がみなぎっている等と言われるようになった。

 正直毎回それしか言われ無いほどで、些か鼻について不遜ながら又かと思うようになり、最近これがひょっとした剣道関係の話から記憶が蘇えった。

 これは嘗ての残心のたまものなのかも知れないと思い当たった。とすれば彼の剣の達人の言葉は何時しか私にも生きていたと言わざるを得ない。又かなんどと思っては罰が当たる。

 又当時私が馬鹿正直に、こう言うことかとも知れないと闇雲に実践したことは無駄では無かったのだ。本人が忘れた頃に効果が出てきたのである。

 そして先般十年ぶりくらいにその折の剣の名手にお会いした折に、これこれでその節は結構なご指導をとお礼を言ったのだが、先方もそんなことを言ったっけとばかりに見事に覚えてお出でではなかった。

 マンガみたいな話だが、やはり一事が万事の一例くらいにはなるだろう。元々無器用極まりない方だから一つくらいは功徳もなくては!と今更ながら感謝する次第で。


最終更新日時 2011年7月22日 23時6分11秒
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2011年7月19日

思い浮かぶままに1  (1)

 ツイッターとかフェイス・ブックとか言われるものの存在価値は、私にも何となくだが判る気はする。世界的に大きな影響を持つようになった経緯も想像できる。
 しかしこれは絶対正義、危険はないのだろうか。

 対照的な存在を持たないものは危うい、即発的感情的なものは正直いって情緒的には率直且つ大衆の意向を正直に告げてくる。しかし反面熟考とか深慮という面からは距離的に遠ざかる危険も又大きい。

 人は一面的では成り立たない。知・情。意の少なくとも三面が必要だ。そしてこれを具現化するのはそう簡単ではない。現在金科玉条のようにもて囃されている民主主義も、反面では衆愚の危険性を絶えず念頭に置かなければならない。あくまで比較的にと言う条件がついている。つまり完璧などと言うものは人間にはないのだ。

 バランスを欠いた場合の人間の危険性は古来まるで変化は無いのだ。

 


最終更新日時 2011年7月19日 11時40分53秒
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2011年4月26日

サンデル三元講義2

この講義中どうも気になる箇所が一つだけあった。
欧米の個人主義と今度日本の災害地域で多くみられた共同体主義の比較と差違について関連した質問が教授からも幾たびと無く出ていたが、そのことに付いての議論中、どうも個人主義と利己主義が混同されているのではないかと思えたことだ。

若い学生達ならともかく、教授がどの段階でその差異を注意するかと気をつけていたが、最後までその事は問題にされなかった。或いは教授的には共同体主義にあらずんばこのような場合、結局個人主義或いは利己主義に大きな差はないと判断されたのか。
些か気なったところだ。


最終更新日時 2011年4月26日 15時34分58秒
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ツアラトストゥラ

最近100de読書という番組が始まった。その最初のテーマがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」。何せ大部の本を25分ずつ4回100分間で語たろうというのだから、エッセンスのみを抜き出そうというのだろう。

昔々半世紀以上昔の高校生時代、級友神谷正純がこれに凝っていた。同時に親鸞の歎異抄とか教行心証とか言うものにもはまっていたから一応は何でと聞いたものの、私と違って頭脳明晰その物。本好きは私も幾らかは自負していたが、私の場合哲学は至って苦手、何処が面白いのか当時はさっぱり判らなかった。まあ好きで読む本だから良いかと私は当時ロシア文学とかドイツ文学中心の専ら文学書。

神谷は文学書は言うに及ばずこういった書物にも範囲を広げていたのだった。脳味噌の構造と材質が違うと私はすっかり諦めていたものだ。実はその前にパスカルの瞑想録、モンテーニュの随想録を高校の図書館で見つけ、一応は挑戦したのだがまるで歯が立たなかった経験があった所為でもある。

考えて見ればその時自身に関連性も興味もなかったものを、単に興味本位で読み始めるには無理があったのだ。この歳になって初めて無理をしたものだと苦笑せざるを得ない。

今、マイケル・サンデル教授の白熱講義をテレビで聴講して、哲学もこんな風に講義されればこれ程にも興深く面白いものをと今まことに残念だが。



最終更新日時 2011年4月26日 15時12分50秒
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2011年4月22日

白熱三元特別講義1

残念ながらもう少し整理して記述すればよいとは思うのだが、もう私の頭はその負担を著しいものと感じるようになった。
元々基本的に他人様の目に触れることは第一義ではなくて、そのことは自分へのブレーキ効果としたことだからと居直ることにする。結局一層厚かましくなるだけなのだが。

これで録画を反復して視るのは5回目だろうか。中身の確かなものは反復するほど厚みを増して感じられる。勿論一度で確実に深奥まで把握できる頭脳が無いのが最大原因なのだが、

 上海の副担大學の女子大生が日本人の自己犠牲の感覚は中国人の自分でも判る。同じような感性は中国でも数多くあって別に珍しい事とは思わないと言う発言があった。自己犠牲が尊敬を招く事例は歴史的にも珍しくはないと言うのは別に中国に限らないだろう。今回の日本の事例は民衆レベルでそうなのであって、選ばれた人たちではないという感覚が欠落している。

 話が前後するが、後半で原子力の危険性を飛行機事故の危険性と比較するのと同じで、極端な影響力、或いは数量差は異質と捉える感覚が分からないのは不思議だ。そのあたり妙に論議が生難い。




最終更新日時 2011年4月22日 7時32分4秒
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2011年4月20日

あっと言う間に!

 このところ体調不調、と言うよりかなり認知症気味なのです。現に久しぶりとは思いながらこのブログを開いて開いた口がふさがりませんでした。 だって、だってですぞ! 半年も手を触れていないとは! 

 その間、娘が嫁に行ったり、最近では大震災、原発問題。確かに国難と思わず思えるほどの騒然たる世相には違いないが。私の脳内宇宙ではそれどころではない・・・・? 極端な変異が起こってるわけです。まあ、この世から何時消えても不思議はないと一応自覚はしてるのですが。時空の感覚がこの位変わってくるとまあどうでも良いかもしれませんな。しかし面白いくらい老耄とは予想もしなかった世界です。ただ何となく目の所為もあって、テレビ画面くらいしか見えないので専ら種は其所だけになってしまいましたが。

 司馬遼太郎氏の菜の花忌シンポジュウムは、緒方洪庵を基盤にした司馬氏の文章を中心に
面白かったです。茨城大の準教授だそうですが、磯田氏という歳年少?パネリストも愉快でした。
それと最近の印象ではマイケル・サンデル教授のインターネット利用、ボストン・上海・東
京という三元中継、日本の震災を元にした白熱特別講義は大変興味深いものがありました。
どちらもすっかり呆けてきた私を一時的にせよ興奮させるだけの迫力と内容がありました。
 昔流に言えば呆け用カンフル剤のようなものですか。


最終更新日時 2011年4月20日 14時9分46秒
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2010年10月28日

言葉1  (3)
[ 覚え書き ]  

  言葉の伝えられる概念は多くの場合大凡という大雑把なものであって、さほど正確な意味合いは伝えられないものだ。勿論半世紀以上その不十分な手段に頼って生きて来たからには一応そのことは判っている積もりだった。しかし年を取るに従ってもどかしさはつのる一方でもある。
  話が進んだ場合いやそう言う意味ではなくてと一々訂正も出来ない場合も多い。古めかしい言い方だが隔靴掻痒の感を抱くことも多いのだ。もっとも若い頃からその思いが多弁になった理由でもある。先方に意味合いをなるべく正確に伝えたいという願望のせいだ。例を引く事は恩師松川永郎先生を見習った。先方に納得させられる用例を引けないのは自分自身が中身を把握し切れてないせいだという教えに従ったのだ。自分を確かめる為にもよい方法だと思えたから。
  内容が別に難しくない場合ですら勘違いの場合が結構ある。多少込み入ってくると尚更その感が強くなる。一々説明もしたいのだがそれでも場合によれば誤解も生じる。しかし人は、この不確かな伝達方法以外を一般的にはもてないのも事実だ。
          
      何という不確実さ!

 感性、感覚の世界では、言葉無くして何かの意味合いを伝達することも可能ではあるが、普通言語に頼るなら、一々哲学的な定義を経てと言う訳にもいかない。

 共通のものを抱いていてもなかなか困難で、それ故に大きな誤解或いは真の意味の把握に至らなかった例も史上少なくない。

 友情、同志愛と言ったところである意味もっとも羨ましく思える、西郷隆盛と大久保利通の間でさえ、根底の志において十分以上分かり合えても実際には齟齬を来すことも多かった。この二人ほど根底で共通項を持ち得た仲間は史上いなかったのではないかと思える。しかしそれでも細部においては随分行き違いも生まれた。郷里を同じくし、志を同じくし、同じ主君を師と思い、共に肩を並べてもっとも信頼し合えた二人ですらそうだったのだ。

 まして我々如きではと思いはするのだが、さてさて意思の疎通とは簡単でいて厄介。多くは誤解と錯覚、各々の独りよがりかも知れないとさえ思えてくる。たぶんその手の錯覚の上に成り立っているのが人間社会なのかも知れない。




最終更新日時 2010年11月3日 10時54分38秒
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