榎本武揚~榎本武揚~天保7年(1836)8/25~明治41年(1908)10/26。 通称釜次郎。号梁川。 幕臣。海軍副総裁。蝦夷共和国総裁。 海軍中将。子爵。魯国駐在特命全権公使。海軍卿。文相。枢密顧問官。外相。 18歳で長崎海軍伝習所で学び、江戸に戻って海軍操練所教授、海軍副総裁を歴任しオランダに六年間留学後に軍艦奉行となる。 江戸城開場後、旧幕艦隊を率いて品川沖を脱走。 江戸生まれの江戸育ち榎本釜次郎。兄の名前が鍋太郎というのだったら親の顔が見てみたい。 ソレは冗談として兄は勇之助。 その名づけ親たる父は伊能忠敬の内弟子として西日本を回った男である。 幼名は箱田真与。通称は良介。寛政2年(1790)備後の国、安那郡箱田村郷士箱田円右衛門直知の次男として生まれた。 幼い頃から秀才だった真与は参勤交代について江戸へ出た。 江戸で数学・天文学・暦法・測地術を学んだ。当時の最高の学問であり最先端科学である。 文化元年(1804)伊能忠敬の内弟子となった真与は文化6年から13年までの西日本測量に従った。 忠敬の死後も輿地全図の作成に関与し、実測図が完成したとき、忠敬を継ぐものとして認められていた。 文政元年(1818)幕府御徒士の榎本武兵衛武由の娘と養子縁組(文政5年説有) 名を榎本円兵衛武規と改め別名を左太夫とした。 そして5人扶持55俵の幕臣となった。御家人である。 さて武揚は。 12歳で昌平黌で儒学を修め、その当時珍しかった英語をジョン万次郎に学ぶ。 箱館奉行、堀織部正の小姓として箱館にも来ており、各地を歩き、五稜郭の設計者武田斐三郎にも師事している。(諸説有) その後海軍伝習所に入所、航海術などを学び、オランダに留学。 ここで榎本は後の人生を大き<変える運命的な出会いをする。 出会いの場所は造船所。 かわいいあの子の名前は「フォールリヒター」夜明け前の意味を持つその名前に、さぞかし榎本ら留学生達は胸踊らせた事だろう。 フォールリヒターは名前を開陽と改め、留学生達を乗せ4ケ月弱の航海を経て日本へとたどり着く。血風吹きすさぶ動乱の舞台へと…。 軍艦奉行となった榎本は降伏をよしとせず、開陽以下八艦の軍艦を従え脱走。そして箱館戦争へと突入するが蝦夷地平定目前の明治元年11月15日未明大事な大事な開陽沈没。 それをなすすべもなく見つめる釜次郎の心中や如何ばかりか。 総裁という戦線に立つ職ではなかったが、味方の劣勢を聞き戦いの最中に馬を走らせ、兵士達を叱咤激励する事もあった。 土方さんが戦死した5月11日。土方戦死を聞いて兵を率いて市街地に向かおうとしたところを副総裁松平太郎に止められる。 いいとこあるじゃん。 しかし天の利、時の利に見放されたか、軍神を失ってからは崩れるのも速かった。 明治2年5月18日降伏。 2年半の牢獄暮らしを経て罪を許された後、北海道開拓使として出仕。 諸外国公使、外務大臣などを歴任し子爵を賜る。 1888年(明治21年)には黒田内閣の逓信兼農商務大臣に就任。 この大出世は当時から随分非難されたが、これを変節ととるか、江戸っ子気質ととるか、それは個人の感覚にお任せしたい。 私は残された人生、自分の出来る事をただ一生懸命やっただけだろうと思うのだけど。 戊辰戦争終了後、土方さんの甥の策助が訪ねたときその人となりを書に書いた 「にゅうしつしょせいふう」(←表示できない漢字があるので乗せられなかった…) 部屋に入ってくると清らかな風が吹くような、そんなさわやかな人物だった。 …という意味だそうです。(子孫が語る土方歳三 より) 明治の世の中、新選組を悪し様に罵る世間に逆らって最期までかばったのは松本良順と榎本武揚だといわれている。 千島樺太交換条約締結、東京農大の前身育英校の設立など内外に多くの足跡を残す。 明治41年10月26日、永眠。79歳。 お墓は文京区の吉祥寺。碑は円通寺にあります 当時の死去を伝える新聞記事があります。 ちなみに土方さんとの出会いはいつかと言うと、今まで慶応4年鳥羽伏見の戦の後榎本さんが大阪城にいたとき。と言うのが定説のようですがどうやら1月6日に八軒屋から大阪城へ行く時に土方さんとあっていろいろ語り「懇意となった」そうだ。 確かに土方さんも橋本から撤退して6日に八軒屋に来ている。そして大阪城へ行ったんだもんね。 また、4月11日の無血開城の時、軍艦を引き渡すのを拒み品川沖から館山沖へと脱走、後に品川まで戻ったが勝海舟に説得されて。という事になっている。が、どうやら唯一まともな船として引き渡した富士山丸に搭載していた当時高性能だった9インチダブルグレン砲2門と12ポンドカノン砲2門を開陽丸の30ポンド短カノン砲と交換するのをカモフラージュする為に脱走を装い、三田にあった薩摩藩邸からの監視の目をごまかした。という事らしい。 このときは乗組員に不穏な動きがあるため移動した。と言い訳をしたんだったな。 結局27日に西軍に引渡した4隻は富士山丸を除くとろくなもんはなかったらしい。 2007年10月20日、100回忌法要が営まれました。 榎本さんらしい法要でしたよ 参考:「幕臣たちと技術立国」佐々木譲ほか |