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ホタテバーガー☆ミ

ホタテバーガー☆ミ

~鴻之台から宇都宮~

慶応4年4月11日~4月29日    次ページ

旧暦新暦天気出来事
 4.11  前夜より雨駿河台の旧居を出て昌平橋を渡り浅草葦屋町に出て東橋を過ぎ約束していた向島の小倉庵の近くへ行くが誰も集まっていない。
近所の自身番を起こして聞いてみると歩兵が4~5人寝ている。起こして聞いてみると自分を迎えに来て寝てしまったという。

をいをい;ずいぶんノンキだね~。脱走して来たんでしょ!

すぐに案内をさせて報恩寺へ行くと本多幸七郎、大川正次郎、山角麟三郎その外差図役下同下役3~40人、歩兵およそ450人悉く集まっている。
兵糧の準備をさせ明日朝早く鴻之台へ出発を伝える

 4.12    朝早く報恩寺をでて堅川通を経て葛西の渡しを越える。
伝習隊の生徒4,50人屋根船等に乗って脱走してくる。驚いてこれを返そうとするが聞き入れず仕方なく連れて行く。

これって「集団脱走」だよね?一応皆、大鳥さんを頼って来たんだよね…(疑)

市川の渡し場に着くと小笠原新太郎が迎えにきて大手前の大隊、その他の隊もみんな市川に集まってるから早くしろという、私はすごく驚いて急いで渡り小寺院(大林院)へ行き兵達に昼食をとらせ寺内へはいると軍議の最中だった。

なんで。そんなに驚くことかい?

幕人 土方歳三・吉沢勇四郎・小管辰之助・山瀬司馬・天野電四郎・鈴木蕃之助
会津 垣沢勇記・天沢精之進・秋月登之助・松井・工藤
桑名 辰見勘三郎・松浦秀人・馬場三九郎

土方さんとの運命の出会い!…もっと感動しようよ…

兵隊は次のとおり
大手前大隊700人・七聯隊350人・桑名藩200人・土工兵200人。これに自分の隊が600人。総計おおよそ2000人。大砲2門。
これの総督を頼まれるが「自分の隊ならいざ知らず、知らない隊は引きいることはできないし、これまで戦場に出たことがないので進退のことは未熟でありその大任を担うことは出来ない。」と固辞するが、このままでは出発できず困り果て、日光までならと引き受ける。

参謀は土方さんですvvなんでこんな大事なこと書いてないんだろうね、コノヒトハ(怒)

先鋒 第一大隊(大砲2門附き桑名隊) 小金泊 土方・秋月
  中軍 第二大隊 松戸泊 大鳥・垣沢・三谷・木村
後軍 七聯隊 鴻之台泊

4.13  快晴松戸出発。兵士たちが小鳥などを撃ってその音で人々を脅かすので厳しくこれを禁じる。
小金の大禅寺(現・東漸寺)で昼食を用意していると薩摩藩が流山より来るという急報があり、慣れない事ですごく驚いてそっちの方面に斥候を出して食事を終わらせ近くまで行くが全く間違いとわかりすぐに出発させる。

まぁ、最初の戦闘になるかもしれなかったから驚くのも無理ない。よねぇ。

本当は山崎村に泊まるはずだったがさっきのことで時間をとられ途中の農家に泊まる。私は垣沢・三谷などと村長の家にとまる。
先鋒隊は水海道のほうへ進んだので後を追うべきだけど多勢が進んでは人馬宿泊等に差支えがあるので先鋒と打ち合わせ中軍は関宿通りを行き、宇都宮へ行くことを決める。

 4.14    山崎村で昼食。無事に舟渡(船形)村に泊まる。
滝川充太郎が追いついて来て松岡四郎次郎も弾薬、金を持って松戸まできて加藤平内へ託して戻った
 4.15    舟渡(船形)村を出立し莚打の渡し場を越える
莚打は村民往来の渡し場なので船が少なくようやく川船を雇って渡った。
三谷と共に里長の家に至るとその子弟達が迎えにきて道案内をしてもらい諸川へ向かう。この道は平原で所々茂林多く物静かで奥深い。
村人は先ごろ一揆を起こしたことがあるようで多くの人員を見て驚いた様子だ。
ある一村落を通るとき槍を携え4~5人立ち向かったが歩兵に槍を奪われて逃げ出した
黄昏に諸川着。里長の家に泊まる。加藤平内兵を率いてくる。米田兄弟、三宅大学、牧野主計、天野加賀など一同到着し、駅は人であふれかえり里長、村民しきりに奔走して食事の支度をしてくれた。

ここで合流してきた米田兄弟と一緒に来たのが永倉さんの靖共隊です
このあと後軍に入り宇都宮を目指します

 4.16    小山へ行く為に支度をしていると小川のほうで大小砲の響きが聞こえる。草風隊を斥候として行かせると途中で戻ってきて小山の戦争はわからないがここより一里くらい小山の方に敵兵らしき者が100人くらい集まりこちらへ向かっているから早く戦の支度をしろという。
そこで主だった者を集め軍議し兵を出す。
まもなく大砲の音が遠雷のように聞こえ戦端が開いたことを知る
また小山のほうでも戦争と聞き、暫くして斥候が戻り味方優勢というので私も兵を連れて出ると敵は敗走して結城のほうへ引き揚げた。
味方も長追いせず引き揚げた
手始めの一戦に勝利をし愉快に思う。

良かった~。勝って

夕方四方へ番兵を出し不慮に備える。敵来襲の注進があるが来なかった。

以下、敵味方の死傷者がおおよそだが都度都度書いてあるが、長くなるので全部省略。

 4.17    朝三時、諸川発小山へ向かう
小山で昼食をとる積りで急いだが、その手前で敵300人小山で待ち伏せしていると聞き、こちらから戦争を仕掛けることはしないが待ち伏せしてるならこのまま行くわけにも行かない。と小山から20丁位手前の広原で諸隊長と軍議し、兵を配置し兵糧の準備をさせようとするが、この辺りは大きな村が無くとても米を皆に振舞えず麦や稗などを分配して出発の支度をして進ませる。

総督は兵糧の心配もしないとね。ご苦労サン

まもなく戦闘が始まるが味方不利で押されていると注進がありすごく驚いて応援を出す。

なにをそういちいち驚くかなぁ?

その後、敵の後ろに回った隊が戦端を開き進軍、敵は宇都宮の方へ退き、味方が追撃するが敵は小山に継ぐ村へ火をかけて逃げる。
一同勇気を得てみんな小山へ進軍する。
私も小山本陣に入る。
村人たちも祝ってくれ赤飯を炊き酒を出し今日は日光(東照宮)の祭日なのでこの大勝利は徳川氏の再興疑い無と喜ぶ。
引き揚げのラッパを鳴らして総軍本陣まで引き揚げさせ諸士官を慰労し、分捕りものを点検し味方の死傷を調べる。

勝って嬉しいのはわかるけど浮かれすぎじゃない?

諸士官皆本陣に集まって祝杯を挙げ怪我人を治療していると午後3時を過ぎていたので一同評議をし今日ここに帯陣するのは敵襲の恐れもあるので今夜は壬生街道を飯塚まで進んで一泊することとし、それぞれ出発させると、私も大川などと馬で小山を過ぎるあたりまで行く。
すると敵が結城道から3~400人来るとの報告がありすぐ大砲が打たれ(小山)駅の動揺は婦女のようなあわてぶりですぐに本多に命じて伝習隊を敵のほうへ向かわせる。
私は本陣の方に戻って他の兵隊を整えようとするが前にも行ったとおり兵士たちの多くは酩酊しているところに突然砲声を聞いて大混乱している。
ようやくこれを鎮めて指揮しそれぞれ防戦の手段を講じる内に本多たちが兵士を励まし、相手の隊長らしい者を数人倒したので全隊、結城の方へ敗走した。
この戦闘で軍器を載せていた馬がびっくりして逃げてしまったので兵士の牛革製のランドセルを沢山失くした。

ほーら、いわんこっちゃない。と、思わず突っ込んでしまった。酩酊するまで酒を飲ますな!戦争してるんだからさぁ。緊張感もとうよ。
で?ランドセル、沢山失くしちゃったんだ。残念でしたね。
でも勝ててよかった~。(ホッ)本多さんのおかげ♪

戦が終わったのは黄昏に近く各隊とも疲れているがここに長居するべきでないので先に決めたとおり諸士官兵士を励まし東照宮の旗を夕陽に輝かして飯塚の方へ向かう。
小山から飯塚までは約2里。道路は平坦で左右の並木鬱々として茂りすでに夜になり地形不案内で歩くのに難渋した。
ようやく飯塚村に着いた。今日は2度の列戦をして7里歩いたので酷く疲れたのでちゃんと宿も決めずようやく番兵の手配をしてご飯を食べ兵士たちを休ませ明日の軍議をしここから壬生城下へは2里くらいなので宮川六郎ほか一人を使節として壬生へ遣わして「明日我が軍は城下を通り日光へ行くので順調に進ませろ。止めるなら仕方なく戦うこともある。これは我らの好むところではないので承知してくれ」と言わせる。
対応に出たものは主に聞くのですぐには返事できないというので、ならば明日早朝までに返事を待とうといって帰りこれを伝える。
この近辺の形勢、誰も知るものがなく小金、宇都宮には敵多く集まり壬生藩の心積もりも謀りがたいが我が兵は疲労が激しいのでもし不意に襲われたらどうしようかと心配は限りない。幸い無事だったので明け方に少し眠れた。

戦闘でくたくたになってても警戒をしなくちゃいけないし、ご飯の心配もしなくちゃいけないし、明日の予定も立てなくちゃいけないし、苦労ばっかりだね。(涙)

 4.18    壬生城へ向かうつもりで用意をし先鋒の者は出発したところに、壬生藩より使いが来て言うには「我が藩にも官軍が入りあなた方の隊に失礼があっては申し訳ないので城下を通らないでほしい。
道案内の者をつけるのでここから栃木駅の方を通ってくれるように頼む」
戦を望んでいるわけではないので言うとおりに道を変えて行くと、怪しげなものが3~40人位いたので先鋒の兵が発砲し追ったがそのまま行き過ぎた。
その後飯を農家でとり、栃木駅で休憩。ここは人家も多くにぎやかで戸田長州の陣屋があり、陣屋の人達は兵隊を見て動揺している。ここは知人なので特に気の毒になり使いをやって日光拝礼の為通るので兵隊にも乱暴はさせないから安心してくれと伝えると、丁寧にお礼があった。
休憩の後、出発し隣の駅まで行ったあたりで伝習隊の者が栃木で酒数樽奪ってきたことを聞き大いに驚きすぐに奪った酒屋を呼び出し代金を払い謝ればその酒屋は涙を流して去った。

伝習隊、行儀悪いです。
わざわざ乱暴しないから安心しろとか行っておいて部下はこれだよ。
大鳥さん、立場ナシ。苦労してます

ここも大きな駅で娼妓多く、地形は四方叢林で田野広く壬生までの道がある。周辺を馬で回りそれぞれ番兵を分配して本陣に戻り休息する。
夕方、会津藩木村氏、宇都宮あたりから来る。
壬生藩の者、町人に成りすまし駅内に入り込んでいたのを兵隊が捕え軍監が斬首しようとするのを止めて自分で詰問すると、その人は死を怖れることなく、スパイに来たことを言うのでこれを殺すのは惜しいと思い壬生へ送り返した。

 4.19    出立し、鹿沼の方へ向かい昼前に東の方に火災が起きてると見え焔が空までみなぎり、日光も暗く見えるほどなので土地のものに聞くと宇都宮の方角だという。
鹿沼のあたりで今朝宇都宮で戦があり城郭市街ともに焼亡し、藩主・藩士は壬生の方へ落去などと様々聞く。その頃もまだ火災は収まらず土地の人に頼み様子を見に行ってもらうと夜半に戻り間違いないという。
鹿沼に泊まる
ここは所々に寺院があり土地もあまりよくないので兵を分けて寺院に入れ要所を守らせて、別に宇都宮道へは兵隊を備え、諸隊長を集め軍議。
宇都宮の戦争は第一大隊と桑名兵が城を襲ったのに違いない。聞くところによると落城したらしいが本当かどうかわからず、今晩にも出立して城下へ行きたいが、向こうの様子もわからないので今夜はここに泊まり明日早く発って向こうへ行くことを決めその手はずをつける。

ふふふ。大鳥さんが沢山驚いてる間に土方さんたちは宇都宮城をおとしちゃったんだよん♪

 4.20     早発。七聯隊を先鋒として出立。宇都宮近くになり一旦諸隊を止め休憩。直ぐに斥候を出し市中の様子を窺わせると市内はほとんど焼失して人もいない。只焼け残った家に少しずつ人がいるけど、城内には敵も味方もいない。という。
昨日の戦争の結果はわからないけど、進んでみようと命令を伝え市中に入ると、鹿沼道の方に向かうところは焼け残った町があり人もいたので、それから雀宮の入口の方と城内奥州街道の様子を見させに行くと更に誰もいないという。
再び焼き残ったところに戻り兵隊に食事を取らせ、人々に金を与え休憩の後、隊を率いて城内に入るとようやく焼けつくし、なお焔激しく近寄りがたいので兵隊に命じて消火させ、屋敷を見回ると焼け残った屋敷も盗賊が入ったと見えて酷い有様だ。
そのうち火勢も衰えてきたので表門より城内に入って見ると本、衣類、雑具など紛乱し、町人のような女賊がいたので追い払った。
この城は釣天井以来建物が無く米倉、火薬庫等は焼け残り米は多分に残っている。城内には死体が10体あまりあり、大砲は車輪が破砕して堀の外へ落ちている。一通り見た後焼け残った屋敷を本陣とし他の家に諸隊を分配し番兵を出し市民を鎮撫し近郷の者へも動揺しないよう伝えた。

土方隊が散々暴れまくった後を、消火したり、賊を追い払ったりしていただきました。…後始末させた…?

歩兵には乱暴しないよう厳令を下し、士官が絶えず巡邏しているけれども暴行する者があり、市民に迷惑をかけすごく困っている中に宇都宮候の重宝である刀剣や金を持ち出したもの3人を斬首にしたので治まった。

あいかわらず乱暴な歩兵隊。まだまだ苦労は続く!

第一大隊と桑名隊は水海道から下館に赴き同候を説得して武器、金を借り、直ぐに宇都宮に進んで19日朝、城を攻め第一大隊を先鋒として攻めたところ城兵も奮戦しこれを防ごうとしたが桑名隊が搦手門に回り放火したので防ぎきれず君候とともに次々に落去した。
19日落城後、右隊は東の方で休息し、今日再び入城した。
兵糧炊き出し、病院隊を決め胸壁を築かせ、城内の米を出して市民に振舞った。

第一大隊と桑名隊を指揮していたのは土方さんなのになんで名前出さないかなぁ?
土方さんがすごすぎてびびったな

 4.22 5.14雨。寒気は冬の如く衣を透す 敵兵、壬生城に入ったと報告があり七聯隊を幕田に出し、壬生道の防御に備えて会津砲兵隊一中隊が来る。
壬生藩の友平慎三郎がきて壬生進撃の策を立てる。軍議の上明日23日壬生城進撃を決める。
 4.23     夜二時、壬生城へ向かい出発。本堂へは七聯隊と伝習隊の四小隊、砲兵、土坑兵、雀宮へ伝習隊ニ小隊を向け会津兵は本道より右の間道から向かうと約束する。
本道の兵、幕田へつくが暴風雨で暗闇で近くも見えない。ようやく安塚の前に着いた時夜が明けた。
諸軍小休止のあと安塚へ進んだが敵は早くも安塚に来ている。

軍議なんかしてる場合じゃなかったね。さっさと攻めればよったのに。
でもこんな時期なのにすごく寒かったらしい。

地形を見て胸壁を築き大砲を備え、且左右の林に歩兵隊を潜ませ我兵の正面を挟んで忽然と撃ってきて味方は大いに驚き急に備えを立て撃ちだし戦ったけれど夜はまだ明けず地形もわからず苦戦する。
しかし、各隊入れ替わり3時間も血戦し、すでに敵の大砲も分捕ったが雨で寒く兵隊は疲弊し、士官兵士ともに討死も多くなったので一旦退却することにし全隊引き揚げの喇叭を吹いた。敵も追撃してきたが、特に長追いもせず引き分けた。
雀宮から出撃した大川の隊は直ぐに壬生城へ向かい敵の後方へ向かう積りで右の安塚の戦には拘わらずニ小隊をまとめて城下に押し寄せたが、途中で多くの敵の怪我人を運んでいるのを見たがわざと敵兵の振りをしてやり過ごし、一戦もせず城下へ入ったところ、城下に残っていたものはすごくあわてて城内へ逃げ防戦したので、直ぐ市中の人家へ2・3箇所放火したが大雨で充分に火が上らず約束した後兵もこないので、このまま城を攻めるのは人員が少ない、と引き揚げる途中、敵にあったがさっきのように姿を潜めていたので敵将らしき人に会いこれを狙撃して倒した。
本日は私は具合が悪く出陣しなかったので細かいことはわからず本多と大川に聞いてこれを書いた。

もー。風邪引いてる場合じゃないでしょぉ?皆ずぶぬれで戦ってるのにぃ。

各隊が帰陣した様子を見ると大風雨で全身水から出たようだ。戦争の様子は不利ですごく寒いので士官兵士ともすごく憔悴した。今日の戦争は8分の敗である。
歩兵差図役小宮山金蔵も「ブリッキトース」で怪我をした。

「ぶりっきとーす」ってなに?
初敗戦。

 4.24     早朝、諸隊長会合して軍議し、我軍は不利なので壬生城の兵は宇都宮へ攻め来るに違いないと直ぐに防戦の策を立てるのを第一とするが昨日の戦争は雨の中だったので小銃が湿って使えないと言うので一同時間を決めて急いで準備することを伝え、様々会議するうちにすでに五ツ半ごろになり、小銃の音が聞こえてきたけれど、銃の準備をしなければならず強いて気にしないようにした。

いやいや、気にして斥候とかだそうよ…

番兵所からもまだ報告が来ないので安心していたがだんだん激しく聞こえ、大砲の響きも聞こえてきて不思議に思い、すぐ出てみると敵は壬生街道から襲来との報告が来た。

不思議じゃないでしょ?戦争してるんだから…(呆)

各隊に通達し防戦の支度をさせ持場を決め向かうが、敵の散兵が早くも城近くに来ていて竹林や堤内の樹林中に潜み狙撃してきたので味方も防戦する。
もともと宇都宮は大手の方は堀も深く守りも堅固だけれど、東南の方は茂林竹やぶが多く、堤が低く堀に水も無く防戦はとても難しい。
城北に明神山という宇都宮歴代の菩提寺があり、この山は市中に臨み、北は日光までも続いて大事な場なので桑名兵を守備に着かせ七聯隊も応援としてここへ向かう。

土方さんは桑名隊と一緒だったということで多分ここに行ったんだろう

御料兵は雀宮街道の防戦として加藤平内もここへ行く。本道より敵襲、宇都宮城内のほうに砲声が聞こえたので引き揚げながら防戦したが兵を失う。
午後になって敵ますます激しく攻め、城外市中城の東南、明神山いずれも大小砲の音、雷のようだ。しかし味方も奮戦し、八ツ頃には挽回し一旦は敵を町外までも追い出したが朝からの戦で士官兵士とも死傷も多く大小砲弾薬撃ちつくし、これを補充する手段が無いので例え今日一日防戦しても明朝になれば前軍を引き揚げるより他に良策もない。
だったら今からそのことを伝え前軍を日光へ引き揚げるのが良いと命令を伝えるうち、敵また勢いを増して苦戦する。
私は城の裏門に上がり明神山の形勢を見るとこれまた激しい戦のようで大砲の撃ちあい盛んである。
奥州道を見ると歩兵が逃げるのが糸の様に続いている。いよいよ引き上げを決め、全隊をそれぞれまとめ引き揚げようとするが、各隊長死傷の者が多く兵が思うようにまとまらない。
ようやく諸隊を引き上げ一隊を残して殿とし城外に出て奥州街道に出た。敵は追撃してこないが大砲を撃ってきて少しはけが人も出たが簡単に引き上げ明神山も引き上げ、残らず日光の方へ向かった。
右の一戦で死傷不詳大概を挙げる。
傷者…土方歳三(足指を傷く)…

以下死傷者略。
土方さんが怪我をしたのはお昼頃らしい。桑名隊とともに城の南東部の「竹林」で「味方の死体が転がっている激戦地」を守備中負傷とある。(桑名藩戦記)

右のように全軍宇都宮を出て奥州街道へ。もともと日光街道は市内から別道があり徳次郎宿へ出るけれど、この日は敵がすでに本道にまで進んで来たので奥州道へでた。
今日はそんなわけで昼間の兵糧も充分に行き届いてないので皆空腹で疲れ果て、城下から少し行ったところで左右に別れ、右は奥州本道左は田舎道で日光へも出る道である。
よって、左道へ入り誰も日光路の方角は知らないが土地の人に聞きながら進む。不思議なことにその辺の百姓家で多く兵糧を炊き出しお結びにしてゴマなどをつけ兵士たちにくれる。
私も黄昏のころある村を通ると百姓が来てどうぞ家に入って食事をしなさいというので、それに従い立ち寄れば縁側に籠を並べお結びを山のように積んで兵に分けている。
私は不思議に思いなんで我らをもてなしてくれるのかと聴くとその百姓が言うには、我らは百姓だけれど東照宮の恩に浴してきた。尊公徳川氏のために力を尽くした方々にせめて食事でも用意して300年の恩に感謝する心ですと涙を流して言うのを聞き、大いに感激する。
それにしても百姓でもここまで忠貞な心は本当に賞賛すると5両くらい与えようとするが受け取らない。
深く感謝して出立しようとするとすでに夕陽も西山にしずんで田舎道もわからず諸士官兵士進むうちに全く夜になり、東西更にわからず、だんだん山道になり暗くて周りも見えなくなってしまったが泊まれるような村落もなく灯りを作ってようやく大綱村に到着しここで少し休もうとすると百姓たちは残らず逃げ去り人影も無い。
仕方なく空き家の炉に薪を燃やし体を温めまた出立して上徳次郎宿へ出ると昨日の朝からの戦争と危険な山道を8里ばかりも夜を徹して歩いてきたので疲れ果て、徳次郎宿で食事をし大沢駅につく頃、眠くて夢中で歩いたが最早一歩も歩けず農家の縁側に腰をかけ休憩すると知らずに倒れ伏し寝てしまった。

ううう。哀れだ~。一軍の将が縁側に倒れ伏して寝ちゃうなんて~。
誰かかまってやってよぅ。(泣)

目覚めるとすでに四時ごろで私もまた出立し今市本陣に到着した。
怪我人垣沢も戸板に乗って遅れて同宿に到着した。
このとき会津砲兵隊は今市に詰めていて、その隊長日向内記、遠藤某も訪ねてきていろいろ軍事を会議した

このときの負傷者は土方さんのほかに本多幸七(郎)(大鳥さんの腹心、幕臣、伝習隊)、垣沢勇記(会津藩士)、佐久間悌ニら。本当に大事な人がそろって負傷、コリャ心細いわな

 4.25    もともと私の考えでは一旦全軍を今市にまで引き上げ、ここに暫く帯陣して敵の動きを見るのが良い。と考えるが士官から兵士に至るまで日光山に参詣することをしきりに急ぎ、止めようとしても次々に日光へ行く様子なので銃弾薬不足で甚だ困り果て会津藩に相談して急いで若松より送り届けて貰う事を約束した。

兵士どころか士官まで言うこと聞いてくれません…

江戸出発以来、弾薬の予備甚だ少ないのでそのため屯所を出るときはそれぞれ用意したけれども途中で補充が出来ず、後である人のなかだちで送ってくるはずだけれどなかなか届かない。 鹿沼駅泊まりの時、横地、相会両人江戸から遅れて到着したが、この二人日光に在勤して地形を良く知っているので宇都宮に到着すると直ぐに日光へ遣わし小銃弾薬製作をさせた。 今すでに五千発位は出来たけれど出来が悪く実戦では使えず、いよいよ困り仕方なく会津へ頼んだ。 弾薬運送の大切なことは書物上でも心得ておけとあったが今度のような前後混乱のときに当たってしまい何ともしがたい。ああ。

…書物に書いてあっても出来ないこともある。と実感してため息が出てます。
読んでるこっちもため息つきたいです、ああ。

敵勢もおいおい迫る勢いなので少しでも会津兵だけは今市に置きたいと思ったがどういう訳か隊長日向らは国境が手薄だからと直ぐに五十里まで引き揚げてしまった。 私も食料の手配をし、夕方日光へ行く。 鉢石町についたところ市内残らず兵隊の旅宿となり大混雑だった。 本日はまず無事に済んだ。

士官が言うこと聞かなくて苦労しても、弾薬の補給が出来なくても戦闘でぼろぼろになることを思えば「無事に済んだ」日なのね。のんきと言おうか前向きと言うか…

 4.26    日光は一方口で左右後口とも高山が聳え立ち簡単に登れないので守るのには楽だけれど、食料に乏しいので長く持ちこたえるべきではない。
日光山神廟へ一同参詣したらすぐに今市に出てここで防御するべきと思ったが宇都宮で負けて以後、人心は瓦解してほんの少しでも退くことを考えていて敵に近づこうとしない。おまけに本多幸七郎、垣沢も怪我をして相談相手もいないので非常に困って、本多の後任に大川正次郎を第二大隊の頭並に命じた。

頼りになる人は誰もいなくなっちゃって途方にくれる…(笑)

日光奉行新荘右近、組頭清水某が旅宿に訪ねて来て相談するには、
「ここに多人数で駐屯するには食料も蓄えの少ないところなので土地のものに迷惑だし、といってこの地で本陣を構えれば今市やら他のところから兵糧を運ぶのは差し支える。」
とひとことで言えばここで戦争するのは僧徒も迷惑だから障らぬ神に祟りなし早くどっかへ立ち退けよってことだろう、頼りにならないと察して挨拶程度をして帰した

邪魔にされてます

宇都宮以来病人が多いので怪我人だけは会津へ送る手はずをしたが、僻地なので人馬が少なくすごく困った。
宇都宮城落城から板倉候(勝静。備中松山藩主)父子が寺院に蟄居させられていたのを招かれたので直ぐ逢いに行くと
「特別の考えもなくここで戦っては廟前を血で汚すことになり、忠誠も却って水の泡となる。」
これは日光山の僧達に頼まれて話したものだろう。
「いよいよ防戦と決心しその手はずが調ったら仮に弾丸が神廟に当たらなくても大変なことになります。防御の策、未だ立たずに苦労しています。」と答えて帰った
会津水島を参謀とした
明日は早朝より順番を決めて神廟に拝謁し、直ぐに今市へ下るべきと命令を下し今日は格別の変事もなし。

 4.27    早起きして色々事務をし神廟を拝む。神廟は聞いていたより美麗壮観だけど、兵隊の進退のことが心配でこんな偉大な霊地も最早今日までで、今後どんな情勢になるかと悲泣に堪えずそこそこにして神前を下がる。
旅館に帰り兵隊を今市に出し自分も午後から今市へ帰った。
帰り道、工兵方、小菅・松村とともに七里村辺りを巡見して胸壁を築き今市へ着いたら本海道と板橋道の胸壁の場所を決めそれぞれ番兵を決め、今市は宇都宮、奥州街道、板橋道、会津道へ出る道あり、道は蜘蛛の糸のように四方八方へ通じていて番兵を多く出すのに兵士を疲れさせ大変だ。
今日は松平太郎来着の先触れが来た。
 4.28    昨日、垣沢が亡くなった。

大鳥さんにとって垣沢さんは、よほど頼りにしていたらしくその死を悼んで涙を流したといわれています。
25日、日光の和泉屋金右衛門方で没する。行年36(T_T)

三浦木村に頼み鉢石町の上の寺院に埋葬した

日光市観音寺にお墓があります。会津若松の真龍寺にも。

今日土佐人3~400人ばかり大沢に来たという報告があった。
松平到着。士官一同会って最近の江戸の様子を聞き驚いたり嘆いたり、共に涙ながらに話し合う。
松平が来たのは私達が容易に戦争をしてはダメだ。よく世間の情勢を見定めて暴動がないように兵隊の取締りをして動け。と参政からの手紙を持ってきた。
尤もだと思うけど既に兵端は開かれているので、戦をしたくなくても向こうから争端を開くのは間違いないと思う。
それから松平は金を持ってきたので各隊へ分配し今日は松平と一緒に今市の本陣に泊まった。

本当は何しに来たんでしょう?松平太郎さん。
五兵新田で動いちゃダメってさんざんいってたのはこの人。
のちに一緒に箱館へ行くけれどこの辺りは腰が決まってないって言うか上の言いなりっていうか、ちょっとうさんくさい…。

 4.29    松平は土佐へ戦争をやめるように掛け合いに行った。
もし相談が失敗したら宇都宮隊長に掛け合ってまた来ると言って別れ、その掛け合いまでの間兵隊を日光まで引き上げるが良いと言うことで引き上げに決め直ぐに全隊日光へ行く。自分は山内安居院へ宿泊

絶対無理だと思うけど、太郎さん。
なにを考えているのかわかりません


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