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カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
どうしても行きたかった沖田さんが最後をすごした地
~千駄ヶ谷~ 沖田さんが亡くなったのは慶応4年5月31日。 千駄ヶ谷の植木屋平五郎さんの家の離れだと言われています。 そしてそこが「四谷大番町89番地」現在の大京町29番地。青い建物の場所です。 ここです! といっても平五郎さんの家の敷地はこの歩道橋の辺り一帯全部です。 広っ!さすが植木屋さんです。(*^^)v そして通りのこっち側、坂を少し上ったところに「池尻橋の欄干」がカケラのように残っていました。 平五郎さんの家のすぐ近くには水車があってそれはこの池尻橋の手前だったそうです すっかり蔦に覆われちゃってちょっと見ただけじゃなんだか分からない程です。ここにも建築計画の看板が建っていたのでまだまだ変わってしまうのでしょう。(>_<) ~今戸~ 浅草からてくてく歩く事15分くらい? 招き猫発祥の地でもあり、今戸焼き発祥地でもある今戸神社。 ここにもあります 鳥居の下のほうの青いダンダラには「沖田総司終焉の地」と書いてあります なんで終焉の地が2箇所?どっちが本物なの~~?! っとおもってたけど、ま、いいじゃん?(←いいのか?) それぞれ根拠があって、それぞれ信じてるヒトがいてそれで心の支えになってるなら。 “時間がたつ”ってそういうことだよ(うんうん。) ずんずんと中に入っていくと思ったより小さなところでした 本殿にはおっきな招き猫が御二人も☆ミ そして「生命の言葉」がおいてありました。 私が行ったときは「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動がるれ」でした 偶然ですがこの言葉大好きなんです。こんなところでこの言葉に逢えるなんて…沖田さん、ありがとう…!(←はぁ?) 左隣には「今戸焼き発祥の地碑」沖田さんの碑をはさんで右側には…なんだっけ?忘れちゃった~(^^ゞ とにかく狭いところにちんまりとありました 説明には 沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている とあり 碑字は橘右近書 とありました。右近?どなたかしら?そして沖田さんとどういう関係が? ~称福寺~ 最後まで新選組のよき理解者でもあった松本良順先生。 その松本先生の医学所があったところ。最初沖田さんはここに居たんだけどそのうちに千駄ヶ谷の植木屋へ移された。と…。 称福寺は入口を見ればもちろんお寺だけど、中へ入ってびっくり。ぜんぜんお寺っぽくないんだもの。 ここ民家じゃないの?とおもいつつ恐る恐る中を窺う、かなり怪しげなヒトになってました 後日お墓のほうへも行って来ました 六本木ヒルズに程近いおっしゃれ~な所にあるこのお寺、実は藤田五郎と名を変えた斎藤一 が住んでいた場所とも 意外と近いんです。 もしやもしやでそんなことがあったかも…。と思わせてくれる位置関係。 諸事情によりお参りは出来ませんが、塀の向こうから墓石を見る事は出来ます 総司の墓石の隣には沖田家代々の墓があり、甥芳次郎(姉・ミツの長男)の墓碑もあります。 また、山形県鶴岡市にある常念寺は総司の義兄林太郎(姉・ミツの夫)の菩提寺で過去帳に「沖田総司子」の記載があるとか。 う~ん、京都には「沖田氏縁者」の女性のお墓があるしこれまた謎が謎を呼びますな。 *おまけ* 浅草といえば「浅草寺」浅草行って浅草寺素通りは出来ないよね~ ってことで、寄ってみました 有名すぎる雷門と仁王像はほんっとにヒトが多くて、とても写真なんて取れる雰囲気じゃなかったので 本殿から参道を見たところ 五重塔。ここまでくるとずいぶんヒトは減りました。 この日、浅草は35度。観光客ってスゴイ。 暑さをものともせずすごい人出でした。日本語なんてほとんど聞こえません。そしてそれを横目に誰も行かないようなところをてくてくしてる私って…(*^^)v お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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