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カテゴリ:毎日の記録
実は密かに楽しみにしていた「町田・八王子南史跡めぐり」ツアー。
ここのところ雨に祟られテンションが下がり気味だったが、今回はようやく天気も持ち直しさぁ出発ぅ~ 高幡不動 に集合して今回はバスツアーなのだ。 【保井寺】…ほいでら。斎藤一諾斎墓所。秀全。 斎藤一諾斎は文化10年(1813)年生れ。もちろん新選組では最年長。 その経歴も変わっている。 江戸で幕臣だった父、鈴木半次郎の元から6歳のとき浅草今戸の住職に養子に出され、斎藤となる。 安政4年(1857)甲州(現・大月市賑岡町強瀬(こわせ))の曹洞宗補陀落山全福寺の住職となる。 安政4年といえば土方さんは近藤さんと出会った頃かな。近藤さんが佐藤彦五郎さんの家に頻繁に着始めた頃。 慶応3年(1867)秋の隊士募集で入隊したらしい。甲陽鎮撫隊で敗れた後会津へ転戦、仙台で降伏しているがこれは土方さんが蝦夷へ渡るとき言い含めて江戸へ帰したという。 このとき土方さんが餞別として30両を渡したことを謹慎後佐藤家を訪ね話している。 その後八王子の大塚村で生蘭学校を創立し、自ら教鞭をとる。 その大塚村の清鏡寺に一諾斎の碑がある。明治7年(1874)没。 入隊前も謹慎後も全く戦さとは違う人生を歩んだ人なのね。ある意味新選組とは一番遠い印象を受けますな なにより54歳で入隊って入るほうも入るほうだが入れるほうもどうなのよ? よっぽど欲しい腕を持っていたとか…? 【絹の道資料館】…鑓水の豪商で名主の八木右衛門の屋敷跡で石垣は当時のものを復元している。 江戸時代から始まった養蚕は安政6年(1859)の開国で輸出の花形となり鑓水の商人は横浜開港で活躍、絹の道として明治まで繁栄した。 ここに関してはいろいろ面白い話しがあるので後日改めてUP予定! 【大法寺】…横倉甚五郎墓所。 【清水寺】…せいすいじ。 なんか写真で見るとすんげー山の中のお寺って感じ。いや実際そうなんだけどさ ここには文化財に指定されている観音堂・鐘楼・水屋などがあり近藤三助の碑がある 「近藤先生碑」とだけしか書いてなく裏に碑文があるんだけど風化してしまって上手く読めない。そして台座にはこれを建てた人たちの名前。その中に 「島崎周平」の文字が。 これでこの碑の人物が「近藤三助」ということがわかるのだ。 ここの建物にはこれでもかって言うほど葵の御紋がついている 水屋の屋根にまで…。 ここは青木易直の勧進で建立。 地頭建部家の相原325石の管理補佐を青木家がしていたので易直の頃、名字帯刀が許されていたためらしい。 ところでこの観音堂、とにかく彫刻がすごい。雨ざらしになっているのがもったいないほどだ。 よく見ると水屋の屋根も亀や鶴、水がめから水があふれている様子やら天井にまでなにやら絵が書いてあったようなのだ。 凝ってるなぁ。こんな田舎(失礼!)に…。 【天然理心流】…目録・免許 個人所有の貴重なもの。 近藤三助のものは文化9年(1812)の記載。これはかなり貴重なものだそうだ。 いやぁ~眼福でござったぁ 【青木家住宅】…市指定重要文化財・市指定史跡 母屋は萱葺、そして建立は文久2年! 文久2年建立って聞いただけで胸がいっぱいになるぅ~ こういうのが残ってるだけで感動しちゃう。 【萩原糺家】…天然理心流門人。文久元年六所宮境内で行われた近藤さんの四代目襲名披露野試合のとき赤軍の大将として出陣した。 その萩原家。らしい…。 なにしろ家がでかくて全体を撮ったらこんなことに…。 手前は桑畑。このあたりは養蚕が盛んでこのお家も蚕部屋があったでしょう。 【小島資料館】…新選組関係の資料館の王道。 とにかく資料が豊富です 土方さんが橋本さんに贈ったお祝いの漢詩とか、超有名なラブレター付きの手紙とか近藤さん、沖田さんの手紙、山南さんの血塗れ刀の手紙とか本当にすごいものばかり。 館長さん自らのご案内と説明も聞けてうひうひでした。 真冬の間は閉館してるし開館も月2回だし、午後だけだし、バスの便は良くないしでなかなか行けないのだけれどここで一日過ごすのもいいなぁ 今日はここまで。 きっとまた近いうちに第2部があるでしょう(希望) 解散した後、またまた数人で話し込む。これがまた楽しいのさ。 しっかしぎゅっぎゅっと中身の濃い充実した一日だったなぁ (説明は日野宿本陣文書検討会の資料を参考にさせていただきました…) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年03月21日 22時28分35秒
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