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カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
名古屋城。
ココは知らない日本人はいないんじゃないかってくらい有名なお城だけど、その歴史となると案外知らないでしょ←ワタシだけ…? もともと駿河国の今川氏親(義元の父)が尾張進出の為柳之丸を築きその子、氏豊の居城としたのが始まり。大永年間、1521~1528年の辺り。 うお~。480年程昔ですな。 その後、織田信秀が奪い那古野城と称する。 この城で1534年(天文3)織田信長が生まれた。(異説有) ~那古野城跡~ 名古屋城築城の折は二の丸の一部となった。 織田信長の活躍と豊臣秀吉、徳川家康の物語はご承知の通り。 天正10年(1582)那古野城は廃城。 そして三人の物語が一応の決着を見た後の慶長14年(1609)徳川家康は名古屋城築城を決定する。 6年の歳月をかけた慶長20年(1615)天守台、本丸、二の丸、西之丸、御深井丸(おふけまる)、本丸御殿、天守閣完成する。 徳川家康が駿府城で没する前年のことである。 そして寛永10年(1634)時の将軍家光の上洛時の宿舎に使用する為、本丸御殿の大改修(御書院(上洛殿)御上がり場書院(御湯殿書院)など)が始まり、このときに狩野探幽らが増築部分に障壁画を書く。 家光が狩野派を好きだったのか。 二条城のような障壁画が今でも残ってます。 寛永11年(1634)7月、家光、上洛の為に名古屋城に立ち寄る。 以後上洛殿(本丸)は空家ってことですな。 たった一度、それも数日へたしたら一日の為にこんなもの作っちゃうんだから時の権力者の力ってのは本気ですごかったねぇ。 誰も文句言わないんだもんね。 家光が去った後、本丸御殿は尾張藩士により黙々と手入れをされるだけとなった。 ところで尾張藩主はどうしていたのかというと、二の丸に居たんだねぇ。 築城直後は本丸にいて二の丸のほうに将軍の御座所があり、家康や家忠もこちらを使っていた。 でも本丸を将軍の御座所と決めてからは藩主は二の丸に移り、住居兼仕事場となったのだ。 もっとも二の丸とはいえ本丸・西丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当したって言うんだから相当なものですな。 現在の愛知県体育館は二の丸の馬場跡だそうですよ。 馬場だけであの広さ…。 さて、御深井丸(おふけまる)って何?と思うでしょ? 初めて聞く名前ですな え~っと、御深井丸は…。 本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路でつながっていた。 櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓が現存している。 三階櫓と称され、三層三階のその規模は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。 清洲櫓とも呼ばれるのは、慶長16年(1611年)に清洲城小天守を移築したものと伝えられるためである。 本丸の後衛を担う郭と思われるが、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和堰武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。 郭内は各種の蔵が建てられたと思われる。 つまり倉庫群ってこと? 広い…。本丸より広いんじゃない?ってくらいの敷地を持っていますな。 どうやら名古屋城ってのは籠城を考えて作られた城らしいですな。 ほとんどの城もそうだろうけど、特にここはそんな気がする。 私の場合、城をちゃんと見たのが「二条城」。 最初だったせいもあってただただ感激しただけだったし何より絢爛さにビックリしちゃったなぁ。 広いとは思ったけど御所のほうが全然広かったし、天守閣もなかったから城ってこんなものか。と思いましたわ。 次に「五稜郭」をみてもあまり違和感がなかったんだよね。 「城」なのに。 西洋風って言う言葉に惑わされたって感じ?広さも装備もあまり感じなかったのさ。 次に見たのは「江戸城」だけど、広いなぁと思ったし、戦う為の建物。将軍の居城。っていうイメージだけだった。 それから「鶴ヶ城」 ここは戊辰戦争のコトしか頭になかったから天守閣と走長屋だけ見て満足しちゃった。 で、「名古屋城」 なんの思い入れもないせいか(苦笑)ようやく冷静に「城」を見られたようで。 いやぁ面白いね、城。 「城マニア」のキモチが良く分かりますよ。 それぞれの存在の意味っていうかその城が一番機能していた時代背景とか考えてみると、当時の人たちの想いや必死さが伝わってくるようで。 門ひとつ櫓一つ取ってみても深すぎて語りつくせない! 今いろんな城で再建計画がすすんで復元しているけど、ただのテーマパークのようにだけはしてほしくないね。 エレベーターや電気はつけて欲しいけど(笑)間取りとか、天井の様子とか、襖、欄間、釘隠しなんかはちゃんと教えて欲しい。 あぁ、アツク語ってしまいましたな。 続きは次回。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年05月24日 12時56分36秒
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