|
カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
~御霊廟~
昭和20年3月10日北廟被災、5月25日南廟被災。 二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失し今では写真の中でしかその当時を偲ぶべくもない。ヒドイ 僅かに残った建物もあちこちに移築保存されてるようで、一体どのくらいの規模でどんな様子だったのかさっぱり見当もつきません。 それでも普段は固くその門を閉ざされている御霊廟。 元は文昭院殿(六代将軍家宣公)宝塔前中門であった「鋳抜門」(国宝)が現在の御霊廟を守ってます。 静寛院宮御祥当忌だったこの日、ご好意で中を見せていただけました。 正面に東京タワー。 中には整然と並んでいます。 静寛院宮親子内親王 そのとなりは 昭徳院殿十四代家茂公 他には 将軍生母側室等の合祀塔、六代将軍家宣公夫妻、二代将軍秀忠公夫妻、七代将軍家継公、九代将軍家重公、十二代将軍家慶公が眠ってます。 ちなみに二代将軍秀忠公は会津藩祖・保科正之公の実父。 秀忠公は正室達子(織田信長の妹お市の娘・三代将軍家光の生母)の悋気を恐れて幸松(正之公の幼名)を見性院(武田信玄の次女)に預け養育させました。 夫妻の墓となっているところは墓所が焼失しちゃったのかしら? 他の将軍は日光、上野寛永寺、谷中墓地に眠る。 御霊廟というとつい会津の御霊廟を思い浮かべるけど、全然違うようなやっぱり似ているような…。 本当は立派だったんだろうな。 今の東京プリンスホテルの敷地あたりから現東照宮のあたりまで、南と北の御霊屋に分かれていたらしい。 むむ。残念。 ~芝時の鐘~ ここにも時の鐘があったのよ ここは切り通しと呼ばれたところでこの右側に時の鐘があったとされる。 増上寺のすぐ近く。ここに時の鐘があったなら増上寺とかぶるのに。 なんだか納得いかないなぁ。 ご覧の通り今は何もなくこんな所を炎天下の中せっせとデジってる私って… 実はここには鐘楼堂を持つお寺があったのだが、坂の上いや、山の上のようで断念。 いつか行ってみよう←予定は未定♪ ~青松寺~ 港区愛宕2-4-7 ここには請西藩主の林忠崇氏が眠る。 この殿様は最後の大名で鳥羽伏見敗戦後、遊撃隊が助力を求めてくると直ちにこれに応じ共に戦うことを決意。 二度と戻らない固い決意で自ら陣屋を焼き藩士を引き連れて脱藩して館山・箱根・伊豆・奥州と転戦。 会津戦争に駆けつけようとするが仙台で徳川家が存続を認められたと聞き降伏。 昭和16年病死。94歳。 辞世を求められた時「明治元年にやったから今は無い」と答えたとか。 ← お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月31日 19時53分49秒
コメント(0) | コメントを書く |
|