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カテゴリ:毎日の記録
「久しぶりだな。元気にしていたのか」
「は。」 目の前に静かに座る容保を見つめ慶喜は何ともいえない気持ちになっていた。 懐かしいような、苦しいような。 嬉しいような、いたたまれないような。 あの頃は常に傍らに会った彼を手ひどく切り捨てたのは自分だというのに。 いや、容保だけではない。 家臣、諸侯、一兵卒にいたるまで自分の為に戦ったものたちを一人残らず切り捨てて自分は護ったのだ。徳川家を。 多かれ少なかれ皆、何かを犠牲にして本当に大切なものを護って生き抜いたのだ、この明治の世の中を。官軍の世の中を。 そう信じて疑いもしなかった。 慶喜はみんなを説得したのだ。みんな納得ずくだったのだ。 「身体の方はもうすっかりいいのか?そちは昔からそう丈夫ではなかったろう?」 「おかげさまでこのとおりにございます。」 「そうか、大事にしてくれ」 「…呼んでいるものも多いと思いますが、いまだ為すべきことが済みませぬゆえ、いけませぬ。」 「行く?どこへ?」 ふと、会話が噛み合っていないではないか、と伏せていた目を上げて見つめる。 老いたりとはいえ昔と変わらぬ輝きを湛えたまなざしが自分を見ていた。 いや、昔はこんな深い色はしていなかった。 真摯な輝きは変わらぬのに、何かが違う。 いや、アレから何年経ったと思っているのだ。 お互い老いたし、数え切れぬ苦労もした。 話したいことがたくさんあったのに。 言い訳も説明もたくさんしたかったのに。 なぜか声にならぬ。 何もいえぬまましずかに時は流れてゆく。 カナカナカナカナカナ どこかでヒグラシが鳴いている。 *************** 「御前。」 どの位時が経ったのか、不意に呼びかけられてあわてて目を上げる。 「そろそろお暇いたします」 優雅とも見えるしぐさで一礼すると静かに席を立った。 「っ肥後守…」つい口をついて出てしまった 障子に手を掛けたまま困ったような それでも慈しむような笑みを浮かべてゆっくりと振り向き 「もう肥後守ではありませぬ。」 そう言うと静かに障子を閉めた。 カナカナカナカナ… ヒグラシの声がする。 「御前。いかがなされました?」 声をかけられて自分がずっとそのままの格好で障子を見つめていたことに気づく。 「いや、なんでもない。」 動揺を隠すように言い放つと座りなおして庭に視線を飛ばす。 夕陽色だった部屋はいつの間にか薄暮色にその姿を変え 自分の身さえもおぼろげで。 明治の世の中が落ち着いてくると色んな奴等が自分の話を聞きに来た。 「最後の将軍」の話を聞きたがった。 だから話してやった。 それを聞いた奴等が罵倒しようが、褒めようがまるで興味が持てなかった。 だってお前達はあの場にいなかったではないか 時代が音を立てて崩れていく、飲み込まれてしまうのか、取り残されてしまうのか。 何が正しいのか、それすらもわからない。 信じていたものが目の前で色を変えてゆく。 そんな恐怖を味わったことなどないであろう? やがて時代の波は自分を通り過ぎ、最早別の流れを作り出す。 そうして、終わったのだと。もういいのだと思っていた。 幕府時代の者たちは皆そうなのだと思っていた。 表舞台から降りたら後はのんびり好きなことをやってなにが悪い? 「…呼んでいるものも多いと思いますが、いまだなすべきことが済みませぬゆえ、いけませぬ。」 今更誰が呼んでくれるというのだ?なすべきことなどもう何一つ無いではないか? **************** ある朝、新聞にその広告を見つけた。 小さな黒い枠で囲まれたその記事に、また一人取り残されたのを知った。 葬儀は良く晴れた寒い日だった。 自宅の庭で先日逢った時のことを思う。 なすべきことは済んだのか。済ませられなかったのか。それを知るすべはもうない。 だが、昔から真摯で律儀な男だったからなすべきことは済ませたのだろう。 だから逝ったのか。 いつの間にやら握り締めていた拳に不意に落ちてきたしずくで、自分が泣いていることを知った。 静かに、静かに慶喜は泣き続ける。 ヒグラシの声はもう聞こえない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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