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カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
以前行った文京区散歩、母に話したら「行きたい」と言う。
母は高齢だし、体調がなかなか良くならず保留になっていたのがお呼びがかかった。 ついでにお参りしたい人もまだいたので喜んでご案内。 漸く見つけた板倉候 <板倉勝静> 明治22年(1889)4月6日没。 この方幕臣で箱館まで渡ったけどその後安中藩板倉家に預けられ、明治5年(1872)放免された。 晩年は上野東照宮の祠官。 こちらは碑。 徳川家達の篆額ですって。 榎本さんにご挨拶してお姉さんの墓所も回る。 <鈴木りく> 明治41年(1908)11月14日没。 観月院高誉惠日桂雲大姉。 <細谷安太郎> 漸く発見できました 嘉永4年(1852)3月26日~大正10年(1921)8月 幕臣。横浜仏語伝習所生。伝習隊隊士、砲兵差図役。後、砲兵隊頭取。 旗本細谷喜三郎の長男に生まれる。 慶応元年(1865)に新設された横浜仏語伝習所で田島応親らと共にフランス語を学ぶ。 慶応4年(1868)榎本さんたちとともに江戸を脱走、箱館戦争に身を投じた。 その箱館戦争中に負った傷が、古傷としてずっと残っていたという。 明治3年(1870)頃に釈放。 その後はドイツの製鉄会社クルップの代理人を務めたり、高田商会に勤務したりしていた。 一時期パリに居たとも言う。 箱館で撮られたブリュネさんたちと一緒の写真が残っている。 <赤松則良> 天保12年11月1日(1841)~大正9年(1920)9月23日。通称は大三郎。 壽仙院殿海屋南明台居士 幕臣。 13歳のとき、江川坦庵の下で砲術と兵学を学ぶ。 安政4年(1858)海軍伝習生に選ばれ長崎で2年間まなぶ。 万延元年咸臨丸にのりくみ渡米。 文久2年(1862)榎本武揚、澤太郎左衛門らとともにオランダに留学し航海術・砲術・造船学などを学ぶ。 維新後は静岡へ移ったが新政府に出仕し明治9年(1876)横須賀造船所長、明治20年(1887)海軍中将、明治22年(1889)佐世保鎮守府司令長官、明治24年(1891)横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。明治30年(1897)貴族院議員。 長女・登志子は森鴎外に嫁いでいる。 この赤松サン、赤松則村の子孫なの 私の史跡めぐり好きは実は両親譲り 私のツボな人びとと両親のツボな人びとは微妙に違うので私がスルーした人にいちいち反応してなかなか進まない 結局1時間以上もうろうろとお参りをしてました。 さてランチにしましょうと言うことになってハタと困る。 この辺寺は知ってるがランチなんて全然知らない 困った困ったとうろうろして漸くおすし屋さんを見つけ一息 その後六義園へ。 柳沢吉保の屋敷跡と言われても全然ぴんと来ないが、圧倒的な新緑は心洗われるわぁ。 池には鯉と亀。 …亀と言えば亀趺。 ってなわけで両親相手に亀趺について延々とウンチクをたれつつお庭を堪能し、お茶を頂いてしばしそれぞれの世界に浸る 両親とはここで別れて家路に着くが、このまま帰るのもな~。 ってことで。 <富士神社> 山開きを控えて準備中の富士神社。 これって…これって富士塚だよね しかも文化の頃の碑も建ってる。ってことは幕末にもちゃんとあったってことよね ここは安産のカミサマでもあるらしい。 妊婦ラッシュの我職場のみんなを思い丁寧にお参りしましたさ。 <駒込名主屋敷> この門は享保2年(1717)築なんだって~。 同じ名主さんでも彦五郎さん家とは随分違うな~。 すぐ隣にあった天祖神社 ここには子育て地蔵があったのでやっぱりみんなの安産祈願をお願いする。 え~となになに? 源頼朝奥羽征伐のときに立ち寄ったらしい。 うわ~。古いんだ。 さらに目赤不動尊 東京には五色の不動尊があるんだそうな。 ということで親孝行をした(キブン)の一日でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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