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カテゴリ:幕末・あらかると☆
鳥居耀蔵といえば水野忠邦と組んで天保の改革を推し進めたヒトとして有名ですな。
天保9年(1838)江戸湾測量を巡って江川太郎左衛門と対立。洋学ギライに拍車がかかったとされる。 その遺恨から翌年の蛮社の獄での渡辺崋山や高野長英らの弾圧につながったも言われている。 とにかくこの方、ある意味スゴウデ。 付いたあだ名がヨウカイ 相手を陥れる為にはなんでもしたらしい。 天保12年(1841)には南町奉行・矢部駿河守定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。 矢部は桑名藩に幽閉されたが余程くやしかったのだろう、自ら一切の飲食を絶ち20日程後に餓死した。54歳。 ちなみにこのときの預け先桑名藩は松平定猷(さだみち)。 容保候の弟で京都所司代松平定敬公の義父(定敬公の正室初子の実父)。 この方は 安政6年(1859)、京都警護を命じられるも、藩内における財政窮乏問題などからの心労で病に倒れ、同年8月に26歳の若さで病死している。 さて、鳥居耀蔵。 水野忠邦の改革がどうやらシッパイし身辺が不安になると、忠邦から上手に土井利位(老中首座)に乗り換えようと考える。 水野忠邦に関する機密書類一切を土井利位に提出したのである。 それでも流石に許されず、弘化2年(1845)2月22日家禄没収の上、四国丸亀京極長門守高朗にお預けとなった。 そのときこんな川柳が。 金比羅に生きた鳥居を奉納し 江戸っ子は粋だねぇ。 天保から弘化に変わったときもこんな落首ができた てんぽうももう十五年辰(経つ)の年どうかこうか(弘化)と元の世になり 天保は飢饉と圧政のニガイ思いしかないイヤな世の中だった。この改元によってやっと普通に戻るんじゃないかという期待がこもっているんだそうだ。 その後耀蔵は明治元年(1868)9月まで23年間に渡り幽閉され、歴史の表舞台から消えた。 しか~し表舞台から消えてもそれっきりにならないのがコノヒト。 普通お預けになると精神的に参ってしまい短命に終わってしまうんだとか。 が!ソコは「妖怪」こんなところで死んでなるものかと自分の健康管理に執念を燃やし薬も自分で処方する。 その日記に自分の健康の記述があるそうだ。 胃痛・大吐・舌の腫れ物・口中の爛れ・胸痛・排尿障害・浮腫・脱肛・腰痛…。 すごいですな。 しかも幽閉中の身ではなかなか思うように治療してくれない。 そこで自分で薬の調合をする。 もともとこの方、林家の出なので医学を含めたガクモンには秀でている。 そんな根性で幕末の動乱をよそに頑張った。 挙句の果てにヒトに薬を調合するまでになる。 安政6年(1859)のあのコレラの大流行にもせんじ薬を調合し治した事もあったという。 幽閉されている間に人間が丸くなったのか、その後もさまざま治療をし、薬の調合をしていたと言うのだ。 明治元年、新政府の達しにより釈放。 このときも徳川将軍の命令でなければ従えないとゴネたらしいが11月に江戸に戻る。 街もヒトもすっかり変わった「東京」で何を思ったのか。 実家の林家に身を寄せて明治6年(1873)10月3日、ひっそりと世を去った。 駒込吉祥寺に墓所がある 参考:幕末バトル・ロワイヤル 野口武彦 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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