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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

ドブネズミと捨て猫とノラ犬 1






 俺の十歳の誕生日、ママは糞なクスリで人間を辞め、妖精になった。
 ママは二十五歳だった。美人では無いが、風俗街のネオンと同じ、安っぽいドギヅイ色を放っていた。
「ピーターパン何処に居るの? あたしはここに居るよ?」
 六畳一間、畳の真ん中でママは仁王立ちで言った。目は飛び出そうなくらい大きく見開かれていた。
 俺はママの言っている事が分からなくて、体を強張らせ見守るだけになった。
 ママは右手に掴んでいた注射器を放り捨て、体を震わせていたが、
「あたし、妖精になれたよ!」
 怒鳴ってネグリジェのまま、冬の夜に駆け出た。妖精とはほど遠い、鬼さえ貪り食いそうな化け物のように見えた。
 それまでもクスリの所為で、男達が合体して玉となり結婚を申し込んで来て困ってしまうと泣き叫んだ事はあったが、妖精になったのは初めてだった。
「ママ、待って!」 
 俺はママを追いかけようと立ち上がってドアに駆け寄った。
 でも徐々に足が動かなくなり、ドアノブを掴んだまま考えるだけになった。
 三日洗濯していないティーシャツ半パンで、冬の寒空の下へ出るのが嫌だった訳では無い。ママが事件を起こしたら、どうなるだろうと思った。通行人でも殺したらどうなる。俺はママから逃げられるだろう。ママは病院か刑務所か分からないが、放り込まれるに違いない。そうすれば、ママも少しはまともになってくれるのではないのか。
 邪悪で浅はかな期待が膨れたが、同時に不安も浮かんだ。
 ママが居なくなると、誰を頼りにすれば良い。
 ママの一番仲良しの上客は、背中で鯉が泳いでいる。しかもママと同じ、糞なクスリ大好きなろくでなしのヤクザ。頼れない。
 俺はひとりぼっちになりたくなかった。
 結局、情けない気持ちに背中を押され、アパートから走り出た。

 俺とママが住んでいた街は、昔こそ労働者の町と栄えていたらしいが、今はとにかくしけていた。不景気になって工場が減るのと比例して、街から人が居なくなり活気も無くなった。
 昔の偉い武士が神様から刀を貰った伝説が残る観光地はあるが、客は雀の涙程だ。
 俺とママのアパートは、工場地帯と、ソープランドやスナックが集まる繁華街の中間にあった。何をしているか分からない人間ばかりが寄り集まっていた。
 昼夜など関係無く、小便とドブの臭いが漂っていた。四十近いホステスやチンピラが、痴話喧嘩を繰り返していた。窓ガラスが割れる音は途切れない。ガキ共がグレル確率は、九十パーセントを超えていた。
 アパートを飛び出た俺は、ママを探して歩道橋を駈け上がった。
 そうすると欄干に手を着いたママがそこに居た。光化学スモッグで汚れた夜空を見上げて笑っている。自動車が近づいて来る度に、ママはライトに照らされ煌めいた。本物の妖精に見えた。今にも羽を広げ、飛び立ちそうな気がした。そんな綺麗なママを見たのは、初めてだった。
「ママ」
 呼びかけると、ママはゆっくり俺に顔を向け、微笑しながら欄干に登った。
 今まで何度も繰り返して来たような気軽さで。
 下に落ちる事への恐れは無いようだった。
 俺は欄干に立ったママを見つめた。駆け寄ると、今にも羽を羽ばたかせ、飛び立ってしまいそうだった。同時に、最低最悪な現実に向かっているという気色の悪い予感が膨れ、心臓の鼓動が早くなった。
 どくんどくんどくん。
 突然、呼びかけられたように、ママが再び夜空を見上げた。
 その時、ママの背中から、虹色の羽が飛び出て来るのを見た。羽は細かな光の粒子を散らし、ふんわりと広がった。
 俺も壊れかけていたんだと思う。そんな幻を見たのだから。
 ママは両腕を水平に広げると、何の躊躇も無く飛び降りた。
 何処にも居ないピーターパンを探しに行こうとしたのだろう。
 あぁ、ママが行ってしまう。
 巨大な肉を、おもいっきりコンクリートの壁にぶち当てたような音が心に飛び込んで来た。車の急ブレーキ音が続く。ママが千切れ飛んだ事を知らせる音なのはすぐ分かった。
 俺は欄干越しに道路を覗いた。ママの姿は何処にも無かった。ただ、大人達が車から外に出て来るのが見えただけだった。
 全ての音が遠ざかり、聞こえなくなった。
 巨大な手に捕まり、闇の中に放り込まれた気がした。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
「ひとりぼっち」
 そんな言葉が、俺を遠い場所に連れていった。
 
 俺は父親の顔を知らない。名前も知らない。生きているか死んでいるかも分からない。物心ついた頃には居なかった。
 ガキの頃、同い年の奴が父親と並んで歩いているのを見ると、奇妙な生き物を発見したような気分になった。
 どうして俺には父親が居ないのだろう。
 我慢できなくなり、ママに父親の事を聞いた。 
「名前も忘れたよ」 
 ママは他人事な顔をして言った。その質問に興味は無い、どうでもいいと表情が宣言していた。
 俺もそれ以上聞かなかった。というより、聞けなかった。受け止めるしかなかった。下手をすれば殺される。
 殴れば、殴られる。
 蹴れば、蹴られる。
 殺そうとすれば、殺される。
 ママに教えてもらった世界の常識。
 俺は水色の目をしている。髪は黒いが、肌は真っ白だ。目鼻立ちはくっきりとしてる。外国人寄りの顔立ちだ。だから俺の父親は、外国人かもしれない。
「あんたが生まれたから、好きでも無い男と寝て食ってきたんだ」
 ママはそう言って良く俺を殴った。ママにとって俺は、殴り心地の良い肉の塊だったのだろう。ママは切れるのが早いし、しかもしつこかった。
 長い金髪を振り乱し、鉄パイプで俺の頭をこづきまくった。俺の腕には、ライターで炙られて出来た火傷の跡が無数にある。舌にタバコを押しつけられた事もある。裸にされ、カッターナイフで切られもした。熱湯をかけられた事もある。俺が苦しんでいると、ママは狂ったように笑った。俺は普通の人間では味わえない、最低最悪のクソを食わせられ続けた。
 しかし長く一緒に暮らしていると、奇跡も起こる。
「おめぇオヤジがいねぇよな。オフクロをママって呼びやがって。キモインだよマザコンクズカスゴミ」
 顔を合わせればそう言って、頭を叩いて来るクソ中学生が近所に居た。弱い者を虐めると、クソな自分が少しはまともに見えると信じているような類の人間でむかつくバカだった。
「いい加減にしろ、うじむし以下」
 雪が降りそうな日だった。俺は転がっていた鉄パイプを握り、そのクソ中学生を後ろから殴った。相手が泣こうが喚こうが関係無い。鉄パイプで殴る度、肩のつけ根に鈍い衝撃が来た。見ている全てが霧がかり、その内どんな理由で殴っているかも分からなくなった。 ただ、一つだけママが俺を殴っている時の気持ちが分かった気はした。
 なんで自分だけこんな目に。
 こんなところだろう。あくまでなんとなくだが。
 我に返ると、俺の足元にクソ中学生が転がっていた。顔だけでは無く、ズボンまで真っ赤だった。
 その後がもう大変。
 包帯とギブスまみれのクソ中学生が母親と共に、腐った精えきの臭いがする俺とママのアパートへ恥ずかし気も無く乗り込んで来た。
 正直、焦った。クソ中学生をぶちのめした事を、ママに言わなかった。言えば軽いお仕置きと称する、一方的な暴力を振るわれるからだ。相手が親と一緒にやって来るとは、思っていなかった。状況は実に面倒くさい。ママが怒り狂って、俺を殺すかもしれないと思った。
「あんたのガキはあたしの子供になんてことしてくれたんだ。どういうつもりよ」
「どうしてそんなことをしたんだ」
 ママは物凄く冷えた目にを向けて来て言った。棒読みだった。俺を凍らせハンマーで粉々にし、ドブに捨てたいと本気で思っていたかもしれない。
「俺とママをバカにするから、我慢出来なくなったんだ」
正直に理由を言わないと、本当に殺される気がした。
「本当なのね。嘘をついたら殺すよ?」
 俺だって殺されたくは無い。素直に頷いた。
「分かった」
 ママはそれだけ言うと流しの下の観音扉を開いた。中には刺身包丁が転がっていた。ママは黙って包丁を握った。
「あんたどう責任取ってくれるんだ。さっさとくたばるか、あたし達の視界から永遠に消えてくれ」
 クソ母は調子に乗って唾液を飛ばし、好き放題にまくしたてた。 死角なのか、二人はママが包丁を握った事に気づいていないようだった。
 人の気分を悪くさせるだけで、毒ガスを撒くしか出来ない、できそこないのクソ息子とさっさと逃げれば良かったのだ。
 ママはゆっらりと立ち上がった。怨念に満ちた幽霊のように。
 クソ母子は、ひっ、と怯えた声を出して直立不動になった。直感で、やばいと感じたのだろう。
「あんたらこそうちの子に何してくれてんだ」
 ママは悪魔も怯えそうな声で言い、包丁の切っ先をクソ親子に向けた。
「ひっ、ひとごろし!」
 クソ親子は近所迷惑な金切り声を上げ、逃げ回る事になった。
 
 一時間程して、ママは帰って来た。服はボロ雑巾に変わっていて、破れた所から右の乳房が露になっていた。
 金色の髪は寝起きより乱れていた。鼻から顎まで血が垂れていた。頬と腕には、薄桃色の掻き傷が走っている。ごう姦された直後みたいだった。包丁だけは、部屋を駈け出た時と同じく右手に握っていた。
「お、おかえり」
「うるせぇ!」
 俺が挨拶をすると、ママが怒鳴って近づいて来た。
 ママの目は血走っていた。いつもの癇癪と種類が違うと直感が囁いた。
 殺されたくない。
 逃げなきゃ。
 俺はママから逃げようと振り返った。瞬間、左の肩口から背中を通り腰にかけ、熱い線を引かれた気がした。包丁で切られたのは分かったが、痛みは無かった。熱いだけだ。泣かなかったのは、ママの暴力に慣れていた以上に、泣けば一層傷つけられるのを知っていたからだ。
 必死でドアノブを掴んだ時、奇跡が起きた。
「ごめんよ、ごめんよ」
 俺は背中の熱さも恐怖も忘れて振り返った。
 ママが謝っているのが信じられなかった。
 ママは弱々しくひざまずき、顔を両手で押さえて泣いていた。
「おいで……霧矢」
 ママは血で濡れる包丁を落とすと、腕を広げて言った。空気に溶けそうなくらい小声だった。 
 魂を引っ張られているような気分だった。
 俺は無防備にママへ近づいた。
 ママは目と口元を緩ませると、俺を抱き締め、頭や背中を優しく撫でてくれた。
 顔に当たるママの胸は、大きくて柔らかくて、かび臭かった。
 抱きしめられるのは、包丁で切り裂かれるより痛かった。
 痛くて痛くて俺は泣いた。
 だから特上のはちみつみたいな香りのするママの金髪を撫で続けた。撫でながら、ママのような可愛そうな人になりたくないと思った。
 俺はママが大好きで、大嫌いだった。









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