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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

アリサの恩返し 6


 静かな日だった。妙に。
 隣の部屋からも何も聞こえない。何時も何かしら音がするのに。静かだ。
 こたつに置かれた目覚まし時計の音や、冷蔵庫のモーター音だけ妙に大きく聞こえる。 秋葉弥の部屋だけ世界から放り出された感じがする。
 そんな日はろくでもない事が起きる。
 デパートに居た頃、一度、今日みたいに静かな日があった。秋葉弥と同じ年頃の男だったか。デパートで包丁を振り回して無差別に人を刺したのだ。秋葉弥の家だからそんな事は起きないだろうけれどやっぱり不安だ。
 あたいはマネキンの体から抜けて窓から外を見た。
 カーテンを開けているのに部屋が明るくならない訳だ。
 汚水が染み込む雑巾みたいな雲が空を塗り潰していた。
「雨、降るかな」
 前日は晴れていた。夜も雲が少なかった。晴れると思っていたけれど、結果は今にも雨が降りそうな曇り。不安が丸っこい饅頭みたいになり重くなる。
 いや、心配し過ぎか。嫌な予感といっても予感は予感だ。
「外れる事もあるさ」
 あたいはマネキンの体へ戻るとイメージトレーニングを始めた。綺麗所からとんでもない物まで多種多様の服を着る自分をイメージするのだ。デパートに居た頃、嫌な事を忘れたい時、あたいは何時もイメージトレーニングをした。夢中になれるから嫌な事を忘れられるのだ。それに日頃からイメージトレーニングを実践していればどんな服が来ようとも自然に着こなせるのだ。このトレーニングはある先輩に教えて貰った。とりあえずと倉庫に放り込まれて三年も忘れられていた苦労マネキン。倉庫に居た時イメージトレーニングを思いついたらしい。三年越しでようやく人間に気づかれて表舞台にデビューを果たした時、横に立っていたのがあたいだった。
「何故、諦めなかったんですか? 普通なら気持ちが腐るのに」
 あたいは素朴な疑問を先輩にぶつけた。あたいなら想像するだけで耐えられない。
「何時デビュー出来るか分からないのに。もしかしたら、デビュー出来ずにそのまま消えるかもしれなかった。先輩は頑張れたって凄過ぎる」
 不躾な質問に、先輩は苦笑しながらも答えてくれた。
「世を呪った事もある。どうしてわたしだけがこんな目にって。でもね、もしかしたらみんなよりチャンスは遅れて来るようになっているんじゃないかと思ったの。我慢していた分、チャンスをちゃんと掴めたら、喜びが大きいと思った。考えると、逆に得しているんじゃないかってさ」
 先輩の口調はあくまで軽かった。だが蜘蛛が巣を張りゴキブリやネズミが走り回っている倉庫で延々イメージトレーニングばかりしていたのだ。考えられない。
「生き残るには努力が必要。それだけだよ」
 先輩の言葉が忘れられない。
 努力。あたいにとって必要な事だった。
 あたいが厄介払いされる半年前、先輩も舞台から消えた。立っていた期間は僅か。
 人間に運ばれて行く時、先輩は誇りに満ちた笑顔を浮かべていた。あたいは改めてその先輩にプロとは何か教えて貰った気がする。
 先輩が倉庫で感じていた不安と今、あたいが感じる不安は雲泥の差だろう。それでも不安は不安なのだ。あたいは不安を掻き消す為、これでもかと言わんばかりのでっかいハートマークが刺繍された三流ブランドのパーカーを着たのをイメージしてびしっとポーズを決めた。
 その時、玄関のドアが開いた。
 秋葉弥? 忘れ物? 
 入って来たのは女だった。
 一目で分かる。そんじょそこらの女とレベルが違う。佇んでいるだけで虹色の光線が体から放たれているような女だった。嫌味なんて無い。全て自然だ。黒い髪先はパーマがかかり曲がりくねっているけれどふわりと軽やか。化粧は薄目。目元は二重まぶたではっきりしている。鼻筋も綺麗に真っ直ぐ。丸みを帯びた唇には、薄くピンクの口紅が塗られている。唇の右斜め下に一つ小さなホクロがあった。白いシャツは上から二番目までボタンが外されている。見え隠れする胸元に、銀色のロザリオが垂れている。あたいが着て来たどんなものより高級な服に身を包んでいる。例え三流ブランドの服を着たとしても、内部から滲み出るオーラで一流に魅せられるだろう。嫉妬も忘れるぐらい存在感のある女だった。
「バカじゃない?」
 女は表情を歪めて言うと腕組みし、部屋を無遠慮に見回した。靴を脱いで部屋に上がると、流しの前の丸椅子に座って足を組み、あたいに顔を向けた。女は一瞬、体を小さく跳ねさせ目を見開いた。
「びっくりした。マネキンじゃない。変な物拾って来てぇ。ほんと、あいつ何考えてんだか」
 女は目を細めると立ち上がり、あたいへ近づいて来た。
「変なもんで悪かったわね! あんたこそなにもんだよ!」
 むかつく。
 あたいの前に女がしゃがんだ。あたいの顔を覗き込むと、あろうことかあたいの頬を、軽いとは言え、平手で二回も叩きやがった。 なめてんのか。
 あたいはマネキンから抜け出て女の頭を何度も叩いてやった。
「えいえいえいえい!」
 手が女をすり抜けるのが虚しい。
「まっ、ちょっと美人か」
 女が唇の端を斜めに上げて言った。
「うっ、あっ、ありがとうございます」
 あたいは殴るのを止めて、マネキンへ戻る。そっ、そんなに、嫌な女じゃないかもしれないなー。
「はーあ」
 女は溜息を吐くとあたいの隣に座り、壁に背中を着けた。あたいと同じく足を伸ばし、天井を見上げ持っていたバッグに手を突っ込み何か取り出した。
 指で摘まんでいるのは鍵。
「あのバカ。あたしの為に家を飛び出すなんて本当に昔から大馬鹿。あたしが喜ぶと思ったのかねぇ……」
 女が鍵を握り締め俯きながら言った。
「やっぱりあたしはあんたとは一緒に暮らせない。落ちぶれちゃったお嬢様なんて相応しくないよ」
 女の頬から涙が垂れ、顎先から床に落ちてぽつんと弾ける。
「パパも悪い事、沢山して来ただろうし。ばちかなぁ。まぁ今まで贅沢三昧だったから、普通になって気楽だけど。社交界だの人間関係だの面倒だったし」
 女は泣くのを止めない。幾つも幾つも女の顎先から涙が落ちて行く。
「正直な所、秋ちゃんと二度と会えないのは本当に悔しいけれど……」
 鼻をすすり嗚咽する。化粧も落ち、顔が汚れて行くのも気にせず泣いている。森の中で親とはぐれ、姿を探し泣き叫ぶ子供みたいだ。
 女は首を横に曲げると、あたいの肩に頭を乗せた。
 泣く理由は分からない。ただ、女の頭を撫でてやりたくなった。
 女は泣くのを止めない。泣く理由は分からない。だが本気で悲しくて流している涙なのは分かる。
 ――窓から入る光が、畳のささくれを照らした。太陽が雲から顔を出したのだろう。
 女が泣いていた時間が長かったか短かかったかは分からない。重い時間だったのは分かった。微かに空気が湿っているのは、涙の所為か。
「ふー」
 女は顔を覆った手を離し、長い息を吐いた。目は赤く腫れている。だけれども唇の端は晴れ渡る空を見つめるように斜めに上がっている。
「さよなら、秋ちゃん」
 女は立ち上がると、光に照らされた畳にゆっくりと鍵を置いた。それから一度も振り返らず部屋から出た。
 秋葉弥と女の間にどんな物語があるのかは分からない。知りたいけれど知りたくない。
 女が帰った後の部屋は、時間の流れが緩く感じられた。
 静けさは無い。隣の部屋から、生活音が聞こ始めた。
 ――窓の外に夜が降り始めた。
「ただいまー」
 秋葉弥が帰って来た。何時もと同じ挨拶をし部屋の電気を点ける。靴を脱ぎ、部屋に上がり立ち止まった。視線は畳に置かれた銀色の鍵。鍵を見て秋葉弥顔から笑みが消えた。
「そうか……」
 秋葉弥は油と埃で汚れた指で鍵を拾うと、唇を真一文字に結んで天井を見上げた。
「誰? あの人、泣いていたよ?」
 あたいは秋葉弥に聞いた。聞こえないのは分かっている。でも聞きたいから聞いた。
 秋葉弥は鍵を何度も裏返して言った。
「鍵だけが置かれているって事は、俺、ふられたんだなぁ」
 秋葉弥はあたいの前で正座をすると、前のめりになり鍵を握り締めて弱々しく笑った。
「しょうがないで、終わらせたくないなぁ」
 あたいは自分が見た全てを説明したくなった。使命感さえ湧いている。あたい自身の事を考えると言わない方が良いかもしれない。それよりも、秋葉弥が暗闇の底に沈んで行くのに耐えられなかった。
「んーん。あの人、秋葉弥の事、本気で大事に思っているよ」
 あたいの声が聞こえたようなタイミングで、秋葉弥が笑った。あたいのかつらの髪を掻きむしって立ち上がると、鍵を摘んでゴミ箱の前へ行き指先を開いた。カギが一直線にゴミ箱へ落ちる。
「すっきりした」
 明るい声。光を浴びている時、自然と出て来たような声だと思った。
 秋葉弥はビールを飲まなかった。
布団の中であたいを抱きしめ朝まで震えていた。闇の中、鼻をすする音と、鳴き声を抑えようとしている声を聞いた。あの女と泣き声が似ていた。あたいの中でむず痒い気持ちが膨れる。それでもあたいは慰め続けた。
 あたいの声は聞こえない。しかし想いは伝わる。あたいはあたいの伝える力を信じる。あたいは座敷童になると決めた。恩返しをしたいのだ。秋葉弥に助けられたから。


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