|
カテゴリ:カテゴリ未分類
ジグムント・フロイト曰く
「人間は愛を求める穏やかで、友好的な生物ではない。攻撃されたならば、たんに身を守るだけでは終わらない。強い攻撃性が人間には本能として与えられていると考えなければならない。したがて、人間にとって隣人とは、自分を助けてくれそうな人である。あるいは、性的対象であるのみならず、自分の攻撃性を満足させたり、報酬を与えることなくその労働力を搾取したり、同意なしに性的に使用したり、財産を収奪したり、恥をかかせたり、苦しめたり、拷問したり、殺したり、そういうことをしたくなるように誘惑する存在である。「人間は人間に対する狼である。」自分自身の人生や歴史を振り返ったとき、誰がこれに販路すする勇気を持っていいうるだろう。」(文明とその不満より) ところで、カントほどのヒューマニスティックな哲学者はそうはいないだろうと私は思う。 カントは心から人間存在を信頼し、希望を信じていたように思われる。 しかし、自分の読書で判断する限りにおいて、彼にはどうやら絶望していた節がある。そうまでいわなくても、少なくともどこか虚無的なところがある。 自分にはこの暗示はとてもおそろしい。 もしかしたら、彼の絶望やペシミズムは、彼の孤独や病弱な体が原因だったかもしれない。たとえ、そうであったとしても陰鬱である。なぜなら、個人的な不幸に対しては人間存在への信頼と希望なんてまったく役に立たない可能性があることを示してくれているからである。 さらにおそろしいのは、もし人間存在への希望や信頼そのものが彼の悲しみの理由であったら?道徳律の発見は彼に本質的な悲しみしかもたらさなかったとしたら? あぁ、おそろしい。人間存在への希望と個人の幸福にはまったく何の関係もないのかもしれない。 隣人が悪魔であろうが天使であろうが、自分の不幸にとってはなんの慰めにもならないのかもしれない。 他者とはいったいなんだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 16, 2009 11:57:09 PM
コメント(0) | コメントを書く |