文法家列伝:ソシュール編(5/5)
(5)ソシュールは「ラング」という心的な記号の体系を言語の事実から抽出した 本稿は、科学的言語学体系の創出過程への1つの道として、歴史上の優れた言語研究者の業績を取り上げ、それを歴史的に位置づけることを目的にした「文法家列伝シリーズ」のソシュール編です。ここまで、ソシュールの言語理論の歴史的意義に関して、大きく3つに分けて説いてきましたが、ここでこれまでの展開の大事な部分を振り返っておくことにしましょう。 まず、ソシュールが言語を体系として、認識との連関において取り上げたことを見ていきました。19世紀の比較言語学に至るまでの言語研究史を簡単に振り返り、言語研究が認識の解明の深化とともに発展してきた流れが、比較言語学において寸断され、ここでは個々の音声が歴史的にどのように変化するのか、その法則性を扱う研究として、認識とは無関係の自然科学的方法において、言語研究がなされていったことを確認しました。こうした比較言語学に対して、ソシュールは批判的な見解を述べていたのですが、それは「言語が何よりもまず記号の体系である」というソシュールの根本的な言語観によるものだとして、その中身を詳しく見ていきました。ソシュールによれば、言語は価値の体系であって、他の言語と違うという対立関係が変らなければ、言語の価値は変化しないのだということでした。では、その言語の価値体系とはどのようなものかといえば、それは「観念の差異に結びつけられた音の差異としてのラングの全体系」に他ならないということでした。つまり、ある観念にある音のイメージが結びついた記号が人間の頭の中にあって、その記号の集合体、総体が言語=「ラング」=「記号の体系」=「価値の体系」だということでした。こうしたソシュールの言語観を言語研究史に位置づけてみるならば、言語を体系として把握し、認識との連関において取り上げたということができるのでした。 次に、ソシュールが言語の同定性(何によって同一の言語だといえるのか)をどのように考えたのかについて確認していきました。ソシュールはまず、言語の同定性は音声や文字といった物理的なあり方そのもので決定されるものではないと主張しました。文字を何色で書こうと、彫って表そうと、また音声をどのような声色で話そうと、同じ言語として認められるということです。ソシュールはこうした言語の同定性について、チェスの駒や急行列車の例を挙げて、それらと同じ性質の同定性であることを説明したのでした。それではなぜ、言語の同定性が物理的なあり方そのものによって決定されないかというと、それは言語の恣意性に根拠があるということでした。言語は、聴覚映像と概念との結びつきに必然性がないことに加え、概念がどのような範囲を表すのか、聴覚映像がどのように区別されるのか、定まった基準もないという意味で恣意的であって、そうした物理的なあり方の恣意性には言語の同定性の根拠を置くことはできないのだとソシュールは主張したのでした。では、言語の同定性の根拠はどこに求められるのかといえば、それは他と違うという関係、体系全体におけるその語の位置づけによって決定されるということでした。つまり、言語の同定性は、物理的な形そのものではなくて、言語全体の体系においてその語が他の全ての語と異なっているという関係にこそ、その根拠があるということでした。 最後に、ソシュールが「ラング」を「パロール」から区別したことの意味を検討していきました。まず、「ラング」とは人間の頭の中にある言語に関する社会的な約束事の総体であって、一方「パロール」は個々の人間が話したり書いたりする個別的な音声や文字のことであることを見ていきました。また、両者は相互依存関係にあり、「パロール」は「ラング」なくしては実現しませんし、「ラング」も「パロール」の繰り返しにより社会的に承認されて初めて成立するものであることも確認しました。それでは、ソシュールは言語研究の中心的なテーマがどちらにあると考えていたのか、続いてこの問題について検討していきました。ソシュールは「言語が何よりもまず記号の体系である」と述べていたことを確認し、ここでいう「言語」とは、聴覚映像と概念とが結びついた心的記号の総体のことであり、これはとりもなおさず「ラング」のことであるから、ソシュールは言語学の中心的なテーマが「ラング」の研究にあると考えていたのだということを説明しました。その上で、ソシュールが「ラング」を「パロール」から区別したことの意味を検討しました。第1に、「ラング」は認識の一形態であるから、言語研究は認識の研究そのものだという形で、直接的に認識の研究を問題にしたこと、第2に、言語の本質が(これまで考えられてきたように)音声や文字であるということに疑問を呈し、言語の本質は社会的・精神的・体系的なものである、つまり「ラング」であるという形で、言語の持つ2つの性格を分けて把握したこと、この2点を見ていったのでした。 以上、ソシュールの言語理論の歴史的意義について、3つに分けて説きてきた流れを確認しました。再度ソシュールの言語理論をまとめるとすると、ソシュールの時代までに隆盛を極めていた比較言語学の方法論、つまり個別の音声が歴史的にどのように変化していくのかに関する法則を研究するというやり方に対して、言語の本質は音声や文字の物理的なあり方そのものにあるというのは違うのではないかとソシュールは考えたのです。それは文字をどのような色で書いても、音声をどのような声色で話しても、同じ言語として通用する事実にも裏打ちされていました。では、言語の本質とは何かといえば、それは音声や文字といった物理的なあり方そのものではなく、聴覚映像と概念とが人間の頭の中で結びついた記号が、他の記号との対立関係の中で打ち立てる体系にあるのではないか、これがソシュールの根本的な言語観なのです。こうした考えをまとめ上げることによって、「ラング」を「パロール」から区別し、「ラング」という心的な記号の体系を抽出したものが、ソシュールの言語理論の中心なのです。 では、こうしたソシュールの言語理論を自らの実力と化す、つまり連載第1回に用いた言葉でいえば、「科学的言語学体系を構築する」ための1つの過程にするには、どのような作業が必要になってくるのでしょうか。単にソシュールの言語理論の成果を捉えるだけでいいのでしょうか。この問題に関しては、南郷継正先生が以下のように説いておられることが非常に重要となってきます。「論文を書くとは、相手の論の欠点を正しく説いて見せながら、つまり正当な論文になるように仕上げてみせることが重要なのであり、これを実践していってこそ自分の学の形成過程の一助となるのであり、これが体系化への第一歩となっていくのである。」(『武道哲学講義 第3巻』p.228) つまり、成果は成果として正当に評価しつつ、「相手の論の欠点」も同時に指摘しなければならず、その欠点を正していくことが必要になってくるということです。 ではここで、これまで見てきたソシュールの言語理論を俎上に載せて、簡単にではありますが、このことを実践してみたいと思います。 まず、ソシュールは言語の持つ2つの性格を分けて把握し、それぞれに「ラング」と「パロール」という名前を付けました。言語の社会的・精神的・体系的な性格を「ラング」と呼び、言語の個人的・物理的・個別的な性格を「パロール」と呼んで、全く別の実体として把握したのです。「ラング」は頭の中にあり、「パロール」は現実の世界の中にあるというわけです。そして「ラング」を研究の中心に据え、「ラング」は他の全ての記号と異なるという関係において、自らを同定する記号の体系だと捉えたのでした。このことを別の言葉でいえば、「ラング」は「絶対的な差異」が問題なのではなくて、「相対的な差異」が問題だということになります。そしてこの「相対的な差異」というのは、簡単にいえば「種類」のことです。しかし、「ラング」を「種類」としての記号の体系だと捉えるならば、それは何も「ラング」に限った把握ではなくなってしまうのです。どういうことかといえば、「パロール」は物理的なあり方が問題であって、言語の本質からは外れる存在だとソシュールは考えていたのですが、「種類」という概念を導入することによって、「パロール」にも2つの性格がある、つまり物理的なあり方そのものという側面と、「種類」としての側面と、2つの性格が「パロール」において統一されている、ということがいえるようになるわけです。ある言語(音声や文字)の物理的なあり方の変化は、「種類」が変ってしまうという限界に達するまでの範囲内においては許容されるのだと考えることで、ソシュールが「ラング」と「パロール」という形で二分した言語の2つの性格を、音声や文字の中に二重性として統一的に捉えることができるようになるのです。そしてこのことは、音声や文字が言語であり、言語学の中心的な研究テーマであるとする従来の言語観への、ヨリ高いレベルでの復帰を意味するのです。 それでは、音声や文字(ソシュールのいう「パロール」)が言語であるとすると、ソシュールのいう「ラング」とは一体何なのかが問題になります。実はこれは言語に関する約束事、つまり言語規範なのです。そして言語規範は言語そのものと大きく関係していますが、言語そのものではありません。これは、例えば野球のルールは野球に大きく関係していますが、野球のルールそのものが野球であるとはいえないことと同じことです。ソシュールは、言語が「絶対的な差異」ではなくて「相対的な差異」に基づく体系であることを把握したまでは良かったのですが、音声や文字の中に「相対的な差異」が「絶対的な差異」との二重性で存在していることを見抜くことができず、「絶対的な差異」としての「パロール」とは別の実体として、人間の頭の中にある「相対的な差異」としての「ラング」を想定し、これこそが言語だとしてしまったことに誤りがありました。「ラング」を言語だとしてしまうと、連載第1回で引用した安倍首相の発言について、その意図を平板に表面的に捉えておしまいとなってしまうのです。なぜならば、「ラング」は記号の体系であって、その記号は聴覚映像と概念とが一義的に結びついているからです。「参院選の最大の焦点はアベノミクスだ」といえば、その意味は完全に固定化されてしまい、実は安倍首相の頭の中では憲法改正問題が最も大きなテーマなのではないか、などと考える余地がなくなってしまうのです。 以上、ソシュールが「ラング」と「パロール」として言語の2つの特徴を分けて把握したことの意義と限界について考察してきました。言語に物理的な性質と「種類」としての性質とが存在することを指摘したことは、言語研究史上におけるソシュールの大きな業績だと評価できるのですが、それらを二分して把握してしまい、音声や文字の中に二重性としてそれらが存在すると理解できなかったことがソシュールの限界だったのです。 実は、言語の同定性の根拠が「種類」であると明確に言い切ったのは三浦つとむさんなのです。三浦さんは言語を二重性(いわば「二分性」ではなく)で捉え、言語の感性的なあり方そのものは言語表現に不可欠ではあるものの、言語表現ではなく非言語表現であって、言語の「種類」としての側面こそが本来の言語表現であると説いておられます。また、言語と言語規範がどのような関係にあるのかも明らかにされています。三浦言語論については、10月に本ブログに掲載予定の「三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む」の中で詳細に展開することをお約束して、本稿を終えることとします。(了)