一会員による『学城』第4号の感想(13/13)
(13)我々はどのような研究活動を行っていくのか 本稿は『学城』第4号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマとして設定した「一般論を掲げての学びの重要性」という観点から、この第4号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第4号に掲載されている11本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。 ここでこれまでの流れを、「一般論を掲げての学びの重要性」という点に絞って、大きく振り返っておきたいと思う。 まず、連載第2回に取り上げた加納論文では、「一般論を掲げての学びの重要性」が総論的に説かれていた。すなわち、まずは自らの専門とする対象の一般論を措定するまでの学びとして、先学の業績をしっかりと自らの実力と化しつつ、その歴史的な流れを論理的に把握するとともに、さらに広く、哲学史の流れを押さえること、一般教養を深く学ぶことが必要だとされていた。そうした過程を経て一般論を措定した後は、その一般論から対象的事実を説いていく必要があるということであった。 こうした「一般論を掲げての学び」が学問構築過程において必須であることも説かれていた。連載第5回に取り上げた瀨江論文では、「一般論を掲げての学び」が学問構築過程での鍵であり、こうした学びを経て、当初仮説的に掲げた一般論が本質論へと昇華することが説かれていた。連載第6回に扱った本田・瀨江論文では、一般論を磨き上げておくことによって、他者の提唱する学説の成否が即座に判断できることが説かれていた。また、連載第8回に取り上げた小田論文でも、「一般論を掲げての学び」が学問構築一般論であり、対象の構造を深めていくことになっていくことが述べられていた。 連載第9回の志垣論文では、自らの対象とする分野をより広い一般論から考察していくことの重要性が説かれていた。すなわち、障害とは何かを問うにはそもそも人間とは何かから問い、障害児教育を問題にする際にはそもそも教育一般論を土台にすべきことが説かれていたのであった。つまり、ある対象に関する「一般論」はそれだけで独立してあるのではなくて、諸々の対象の構造に見合った形で「一般論」も立体的な構造をなしているということである。 では、どのような学問をするにしても必須の「一般論」にはどのようなものがあるのか。連載第3回第4回の悠季論文、連載第7回の諸星・悠季論文では、認識一般論の重要性が指摘されていた。具体的には、認識一般論を媒介として、古代ギリシャのタレスの認識に関する具体的な事実が論理的に説かれていたり、ギリシャが文化のレベルをアップさせていった過程が展開されていたり、ヒポクラテスの時代の医療が一般的に措定されて、それが事実レベルで説かれていたりしたのであった。連載第10回の横田論文では、住宅などの人間に関わる問題を説くためには、「生命の歴史」をしっかりと踏まえる必要があることが説かれていた。連載第12回で取り上げた南郷論文では、こうしたことを踏まえて、「人間とは何か」を「国家とは何か」を押さえつつ把握することが重要だとされていたのであった。 連載第11回で扱った井上先生の小説では、「一般論」の理解を深めるために、宗教における「悟り」ということに絡めて「一般論」が展開されていた。すなわち、「悟り」とは主客合一の境地であり、学問でいえば「一般論」に到達したことを意味するということであった。 以上、これまで説いてきた中身の重要な点を振り返っておいた。端的にまとめると、学問構築過程においては、何よりもまず、一般論を掲げての学びが重要であって、そのためには、個別科学史を哲学史をふまえる形で研鑽しつつ、一般教養レベルの学びを深めていく必要があるのであって、こうした過程を経て仮説的にでも一般論を掲げたならば、そこから対象的事実に問いかけ、対象の構造をしっかりと把握しつつ、一般論を本質論へと高めていく必要がある、これが学問構築過程であるということであった。さらに、こうした学びの過程においては、認識とは何か、「生命の歴史」はどのようなものか、人間とはどういう存在かという本質的な問題については深く学んでおく必要があるということであった。 連載第1回に述べたように、今回取り上げた『学城』第4号はそれまでの「弁証法編」という文言が消え、いわば弁証法が当たり前の実力を身に着けた上での学びの過程が説かれていたのであった。しかし、ここでよく考えておくべきことは、これは何も、もう弁証法の学びを卒業したとして、弁証法の学びを全くしなくてよいということでは決してないということである。 我々京都弁証法認識論研究会においても、20年になろうという歩みにおいて、あるいは新規会員が入会してきたことをきっかけとして、あるいは基本的な概念がまだまだ不明確であることが判明したことによって、弁証法の基本書である三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』に立ち返っての学びを繰り返し実践してきたのである。つまり、今回取り上げた『学城』第4号への学びにおいても、弁証法を全く度外視しての学びということはあり得ないのであって、弁証法の学びを土台としつつ、さらに「一般論を掲げての学び」を実践していくということでなければならないのである。 こうした基本はしっかりと押さえつつ、さらに認識論や「生命の歴史」をしっかりと踏まえつつ、「人間とは何か」に関する諸々の学びを実践していくことを土台として、また深い一般教養の学びに取り組みながら、それぞれの個別科学史、その背景にある哲学史を深めていくこと、そうしてそれぞれの分野での一般論をまずは措定して、そこから対象の構造を深めていくことを目指して、今後も我々京都弁証法認識論研究会は今後も活動していく予定である。具体的には、弁証法については常に『弁証法はどういう科学か』に立ち返って学び続け、認識論については海保静子『育児の認識学』、南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』に徹底的に学び、「生命の歴史」については本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』を土台にして学び続け、「人間とは何か」を分かるために「歴史を題材とした時代小説」「人間の心を主題にしている小説」「社会派とされている推理小説」(『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』p.106)をしっかりと学んでいき、さらに哲学の流れの理解を深めていくことを研究会共通の土台とする。その上に、個別科学史の研鑽及び一般論の措定、さらにはその一般論から対象とする専門分野の構造を把握していくことを大きな目標として活動していく予定である。本ブログのタイトル部分にも掲げてある通り、「日本復興」のための学問の道を歩み続けていく覚悟を述べて、本稿を終えることにする。(了)