カテゴリ:言語学
町田氏は「命に別状はない」という表現について、「この文句を使うには、けがや病気の程度が大きくて、死んでもおかしくないという条件が必要だ」と主張し、「病気を早期に治療できたのなら生命の危険がないのが当然だから、ことさらに「別状がない」という必要はない」から、「「大事には至らなかった」と言うべきだ」と結論する。
「この文句を使うには、けがや病気の程度が大きくて、死んでもおかしくないという条件が必要だ」というのはどこから出てきたのか。これは、客観的な事実がどうであるかに関わらず、主観的な問題である。 「早期に治療」をしなければ、「命に別状」があったかもしれないし、少なくともそう感じているからこそ、「早期に治療して命に別状はなかった」という表現が生まれてきたのである。「病気を早期に治療できたのなら生命の危険がないのが当然だから、ことさらに「別状がない」という必要はない」などというのは、世間知らずの・机上の空論的な発想である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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「命に別条はない」は、「実用日本語表現辞典」では、
「事故や災害などで身が危険にさらされた際に、命に関わることではない、といった意味で用いられる言い方。死ぬ事はない。」 となっています。 従って、事故や災害などで身が危険にさらされた人に対して、放置せずに速やかに治療して命に関わるような事になるのを防ぐことができた、又は命に関わるような事ではないことが判明し結果的に「命に別状はなかった」のであれば適切な表現と見なせます。 「病気を早期に治療できたのなら生命の危険がないのが当然」でないのは事故の場合でも致命傷であったり、癌や、難病の場合等に明らかです。 町田氏には言語表現の対象―認識―表現という過程的構造の理解がないため、表現された意味を辿ることができず、認識(主観的判断、把握)の吟味が抜け落ちてしまいます。従って、対象と表現された文を直結し、結果としての表現文を絶対視した上で語彙によりかかって町田氏の独自の形式論理による裁断をするしかない状態となっています。また、慣用表現、比喩表現に対する理解もありません。 「人生の主役たれ」、「のどの渇きをうるおす」、「釣りに造詣が深い」では日本語の膠着語としての特徴、和語への漢語の導入にたいする知見もなく、ソシュールの構造言語学に依拠した形而上学的思い込みの議論が目につきます。このため日本語の文法に対しても日本語の特殊性を無視した形式的、機能的な構造言語学的偏見により解釈することとならざるを得ません。 「二階に上がる」の「に」と「最高潮に盛り上がる」の「に」についても語彙と意味の区別ができずに話者の認識を無視する結果となっています。 町田氏は著書、『まちがいだらけの日本語文法』(講談社現代新書、2002・7)、『日本語の正体』(2008・9 研究社)以来その欠陥に気付かないまま現在に至っており、マスコミもその形式論理を学問的と誤解しこれを重宝しています。日本のマスコミ、言語学界のレベルを象徴しています。 『まちがいだらけの日本語文法』については、「川島正平のページ」の「機能主義的文法論の吟味」(http://www2.tbb.t-com.ne.jp/kawashou18/kinoushugi.html)を参照下さい。■ (2014年05月31日 20時34分09秒)
YAGURUMA"剣之助"さん、コメントありがとうございます。また、特に、川島正平さんの関連ページのご紹介ありがとうございます。
力強い励ましのお言葉として受け止め、一生懸命努力、研鑽していきたいと思います。ありがとうございました。 (2014年06月02日 11時19分28秒) |
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