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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2017年01月24日
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カテゴリ:学一般
(9)一般論を措定するためにはより広い対象についての一般論を踏まえる必要がある

 今回取り上げるのは、志垣司先生による障害児教育に関する論文である。ここでは、教育実践の指針となる障害一般論、障害児教育一般論が展開される。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を示しておく。

志垣司
障害児教育の科学的な実践理論を問う

 我が国の障害児教育は特別支援教育と改称され一見順調に発展しているかに見える。しかしその内実を問えばいまだ教育実践の指針となる科学的な実践方法論はなく、日々の実践は手探りの混迷状態にある。本稿では、人間一般をふまえた実践方法の理論の必要性を説く。

 〈目 次〉
はじめに
一、障害児教育とは
 (1)障害とは何かを人間一般から問う
 (2)障害児教育とは何かを教育一般から問う
二、科学的実践方法論の構築と確立に向けて
 ―私の専門分野は障害児教育全体の中のどこに位置づけられるのか
 (1)「自立活動」とは何か
 (2)「自立活動」の目標と内容とは
 (3)「自立活動」の担当者とは
 (4)「自立活動」(教育)と「機能訓練」(医療)とは
今回のまとめ


 本論文ではまず、障害児教育の現場では思いつきレベルや他分野からの借り物の実践が積み上げられるのみという厳しい現実が紹介され、それが人間一般・教育一般から障害を問うことがなく、認識を見てとり育てる術をもつことができないためだとされる。そして、学習指導要領の障害児教育の定義や国連や厚生労働省による障害の規定が確認され、これらは全て現象的な把握に過ぎず、教育のための指針は出てこないと断じられる。そこで、「人間とは何か」や「教育とは何か」という一般論から、障害や障害児教育の概念規定がなされていく。すなわち、「障害を負うとは、実体及び機能上の不可逆的な変化によって、そのままでは環境との相互浸透ができにくくなることである」し、「障害児教育とは、成長過程における障害による認識(=像)のゆがみを最小にするように環境を整えながら、文化遺産の継承を可能な限り大きくさせていくことにある」というのである。さらに、実践方法論とは何かが問われ、これは実践の事実の共通性を論理化し理論化したものであると説かれる。ここで志垣先生の専門分野である「自立活動」について説かれる。「自立活動」とは、普通教育の基礎・基盤を培うために、直接に障害に関わる指導領域として位置づけられるものであり、自らの障害に関わって子ども自身の主体的な改善・克服のための認識形成をめざして健康の保持、心理的な安定等を図るものだとされているが、その中身は何もないという現実だという。しかも「自立活動」の担当者の養成も十分ではなく、だからこそ志垣先生は自らの責任でその中身を創り上げていくしかなかったと説かれる。最後に、「自立活動」と「機能訓練」の違いが説かれる。すなわち、両者は同じ運動をさせていくという共通点があるものの、前者は教育であり、その目的が認識に働きかけつつ子どもたちを育てていくことにあるのに対して、後者は医療であり、健康を守ることを目的に運動の獲得を目指すものだと述べられる。

 この論文に関してまず取り上げるべきことは、『学城』第4号全体を貫くテーマとして定めた「一般論を掲げての学びの重要性」に関わって、その一般論というものは単独で存在するのではなくて、諸々の対象に関する一般論が立体的に絡み合っているのだということについてである。どういうことかというと、本論文では「障害とは何か」の障害一般論を導き出すにあたって、「人間とは何か」という人間一般論を踏まえておられるし、「障害児教育とは何か」という一般論を説くためにも、そもそも「教育とは何か」という教育一般論を踏まえておられるというように、自らの専門的対象に関わっての一般論を措定するに際して、より広い観点から自らの専門的対象を取り上げて、そのより広い観点をしっかりと内に含む形でその中の特殊領域である自らの専門分野の一般論を構築しておられるのである。このことを具体的に見ていこう。

 まず、志垣先生は障害の概念規定をするに際して、「本質的にいって、人間はすべてにわたって教育されてはじめて〈人間〉となりうる」存在であるという南郷継正先生の「人間一般」の規定を確認しておられる。そしてこの規定は「人間とは何か」を教育から見たものだとして、さらに環境との関わりで捉え返して、「人間は生まれてこのかた、環境とのやり取りをしながら育ち、また育てられていく存在である」(p.127)と述べておられる。しかも、この「環境とのやり取り」について、他の動物とは違い、「人間は認識によって環境に働きかけ、環境を変え、変えたその環境に適応し、さらに環境と自分を変えていくという限りの無い環境との相互浸透的な労働をして発展してきたのであり、そのように育って人間となる存在としてある」(pp.127-128)と説いておられる。こうしたことを確認した上で、「障害を負うとは、実体及び機能上の不可逆的な変化によって、そのままでは環境との相互浸透ができにくくなることである」(p.128)という障害の概念規定を展開しておられるのである。この概念規定には、先に踏まえられた人間一般論が見事な基盤として溶け込んでいて、人間一般を捉えた上での障害の規定であることがよく分かる内容になっている。

 さらにいえば、この規定は、国連や厚生労働省が行っている「先天的であると否とを問わず、その身体的又は精神的能力の不全のために、通常の個人的及び(又は)社会生活の必要性を、全部又は一部、自分自身では確保することができない、すべての人間」(p.126)などという障害者の規定に比べると、実践の指針となる内容が含まれていることが分かる。すなわち、後者の規定においては、人の手助けが必要なことくらいしか分からないのであるが、前者の規定においては、環境との相互浸透のあり方に注意しつつ、その障害を負った方の認識を整えていく必要があるという教育方針が導き出されるのである。

 以上のように、「障害とは何か」という一般論を措定するにしても、そもそも障害を負うのは人間であるから、「人間とは何か」という一般論を踏まえて措定すべきであるというアタマの働かせ方を学ぶ必要があるし、そうした過程で措定された一般論の力も確認する必要がある。筆者の専門分野でいえば、「言語とは何か」を措定するためには、より広い観点から言語とを捉えて、「表現とは何か」という問題から検討していく必要がある、そうしてこそ、本当に役立つ言語一般論を創出することができるのだ、ということになるだろう。

 もう1つ取り上げたいのは、隣接する領域との連関と区別をしっかりといていくことも、学問構築過程においては非常に重要になってくるということである。この論文では、「自立活動」という障害児教育の中核に関して、それが「機能訓練」という医療とどのように関わり、どのように違っているのか、詳しく展開されている。詳細は措くとして、教育の目的は認識に働きかけることで子どもを育てていくことであるが、医療の目的は健康を守ることであるという違いが強調されている。これも筆者の専門分野である言語について、例えば絵画との違いは何か、音楽との違いは何か、筋を通して展開できてこそ、言語の特徴がより深く把握できていくことになるであろうから、こうした課題にも取り組んでいく必要があると感じた次第である。





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最終更新日  2017年01月24日 06時00分14秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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