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私が絶縁する最大のきっかけとなった事件を振り返ります。
発言などは正確に覚えていませんし、うろ覚えで書いている部分もありますが、私にとっては決して癒えることのない、深い深い心の傷となっています。 推敲もせず勢いで書き進めてしまったため、途中で文体が変わったりしていますが、思い出して書きなぐった時の感情を残しておきたいのでそのままにしておきます。 ***************************** 第二子を妊娠中、つわりがひどかった私は、上の子を連れて実家に滞在することが増えました。 いよいよ出産を間近に控え、出産適齢期となる38週を越えてからは、いつ生まれても良いようにと実家に里帰りして陣痛を待ちました。 夫は仕事柄、曜日にも昼夜にも関係なく働いており、いざという時に頼ることができず、上の子の入園とも重なり慌ただしい時期だったので、出産後も1ヶ月程度は実家に滞在する予定をしてました。 私の着替え、子の着替え、ベビー服、おもちゃ、ベビー用品…多くの荷物を実家に運び込み、いつ生まれるかと待ちました。 40週を過ぎた頃。 在胎期間が42週越えるとと母子ともに命の危険があるとのことで、41週と5日目になっても産まれなかった場合は入院し、陣痛促進剤を使っての誘発分娩をすることに決まりました。 薬剤で無理に子宮を収縮させることのない自然分娩を希望していた私は、散歩をしたり、階段の上り下りをして、陣痛が起こすべく運動をしていました。 上の子の出産も遅れていたし、恐らく元々遅れやすい体質なのでしょう。(その次の子もそうでしたから) だから私は特に焦ってはおらず、赤ちゃんは自分でタイミングで選んで自然に出て来てくれるだろうと思っていました。 その一方で、赤ちゃんに出てくる力が足りないのだとしたら、促進剤を使って手助けしてあげることも必要だと感じていました。 分娩方法がどうであれ、元気に生まれてくれればそれでいい、そう思っていました。 41週を過ぎ、入院の数日前。 散歩から帰ってきた私に母は手招きをします。 リビングのテーブルには知らないおばさんが座っていました。 「ちょっとこの人のお話を聞いて」と母。 学会の人だと、すぐに分かりました。 同様のことが今までに何度もあったからです。 私が悩んでいる風だと、母が勝手に判断し、勝手に幹部クラスの学会員を家に呼び寄せ、私に指導をするのです。 基本的に私はそういうことは好きではありませんでしたが、母と話すよりは遥かに話の分かる人もいて、私は決して心を開くことはありませんでしたが、母の気が済むよう少し雑談をしてお帰りいただくということを繰り返していました。 母が良かれと思ってしていることだったのでしょう。 今回もそうなのだとは分かってはいたものの、出産を真近に控えたデリケートな妊婦には辛すぎる内容でした。 婦人部のおばさんが一方的に話します。 細かいやりとりははっきりと覚えていませんが、内容をざっくりまとめると以下の通りです。 ・自分も出産が遅れたこと。 ・分娩台の上で南無妙法蓮華経と唱えたら、パァーっと何かが開く感覚がして、そこから出産が進んだこと。 ・貴女も祈ってみたら? いわゆる自身の仏法体験です。 私が学会にどのような立場であるかや、母との関係が良くないということ、また私自身の思いを無視して一方的に語っていました。 折伏のように、「あなたは間違っている」と否定し、自分が正しいと信じて疑わないことを押し付けるさまは、出産前でナイーブになっている私にとって、鈍器でお腹を殴られているような、鋭い刃物で心刺されるような、そんな感覚でした。 話の途中からイライラが止まりませんでした。 祈りで出産がコントロールできるとでも??? 母はこの婦人部を通じて、私に何を指導したかったんだ???? まだこの世に生を受けていない命まで、宗教で支配しようとするのか??? 私が話を聞いて「早く生まれてくるように祈ります」となるとでも思ったのか??? 初対面の婦人部に、一体私の何が分かるのか??? 母に、一体私の何が分かるのか??? 怒りで我を忘れ、私は婦人部のおばさんの話を聞くことを止めた。 「ハイ」「ハイ」と聞いていた相槌も止めた。 顔も見ないようにした。 それでもおばさんは話し続けた。 話の途中であったが、私は無言で席を立ち、階段を駆け上がって、自室のベッドに潜り込んで涙を流した。 母が憎い。 狂った母が憎い。 母を狂わせた創価学会が憎い。 母を狂わせた池田大作が憎い。 母を狂わせた日蓮が憎い。 体中が憎しみでいっぱいになった。 私はお腹の子に申し訳なくて、もうすぐ生まれてこようとしているのに、こんな嫌な気持ちであなたを苦しめてごめんねって、情けなくなって涙が止まらなかった。 仕方なく実家に里帰りをしているものの、親に冷たい態度でしか接することのできない私を見て、上の子が「何でママはばあば達と喋らないの?」と気を遣わせてごめんねって、嫌なママでごめんねって上の子にも申し訳なかった。 上の子の面倒をみてもらい、安心して二人目を産むために里帰りしているのに、何一つ安心なんてできないじゃないか。 どうしてウチは創価学会なんだ? どうして私は創価学会の家庭に生まれたんだ? 玄関で母が来客を見送る声がする。 婦人部のおばさんが帰った後、母は私の部屋を訪ねて謝った。 けれど私は許すことはできなかった。 「何であんなことをしたんだ!」と、母に詰め寄る。 そして私は母を殴り、蹴った。 母は「ごめんなさい、私が悪かった」とひたすらに謝った。 けれど私は許せなかった。 階段の近くまで詰め寄り、突き落としてやろうと思って大きく振りかぶった。 母は「やめて!」と怯えて身を守った。 私も人の親だ、犯罪者にはなれないと思い留まり、母を突き落とすことはしなかった。 その代わりに、私は母の首を絞めた。と思う。 (怒りで我を忘れ、記憶が定かではない) その後、母は逃げるように階下へ降りてゆき、「何があったんだ」と心配していた父や祖母に騒動の顛末を話した。 …こんな奴、親じゃない。 私は出て行く決意を固めた。 すぐさま自分の部屋に戻り、大きなお腹で荷物をまとめた。 胎動でお腹を蹴られる度に、ごめん、ごめん、と涙があふれて止まらなかった。 大量の荷物を小分けにして、車に積み込んでいる時、父がやって来た。 「こんなお腹で何をしているんだ。お母さんも反省している。早く戻りなさい」 私は父を無視して荷物を運び続けた。 最後の荷物を運び出す前、私は母の部屋にある仏壇の扉を開いた。 (こんなもの!!!) 私は曼荼羅をビリビリに破いてやった。 それは、母が子供に向かうよりも長く、母が向かい合っていたものであった。 仏罰が当たるかも知れない。 頭が八つに割れるかも知れない。 そう植え付けられていた恐怖を軽く飛び越えてしまうくらいの憎しみだった。 私は大きなお腹で重い荷物を一人で車に詰め込み、無言で実家を後にすると、ひたすら涙を流しながら車を運転して自分の家へ帰った。 憎くて泣いた 悔しくて泣いた 情けなくて泣いた 寂しくて泣いた 悲しくて泣いた 空しくて泣いた 苦しくて泣いた 人生で一番泣いた日だった。 そして誘発分娩の入院の朝がやってきた。 出産30分前に夫と上の子が到着したが、それまで私は誰の付き添いもなく、一人で陣痛をやりすごした。 入院中に親に会うこともせず、退院後も実家に帰らず、一人で2人の子を育てた。 産後1週間の体で、産後1週間の赤ん坊を抱っこして、自転車に乗って保育園への送り迎えをした。 0か月の赤ん坊を抱いて買い物をして、家事をして、食事を作り、入浴させて、合間に授乳をして、上の子の遊び相手をした。 ゆっくり体を休めることができず、産後の検診で毎回ひっかかった。 胎盤が子宮に残っており、かたぶたのようにひっついて出て来れない。 そのために日帰りで手術を受けることにもなった。 私は心も体もボロボロだった。 けれど、絶対に親の世話にはならないと決めたし、子どもを守れるは私しかいなかったから強くなろうと決めた。 あの日からもう10年近くになる。 母のことは未だに赦すことができない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.12.18 07:00:48
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