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ゆらのと 徒然草

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2009年08月18日
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 毎年、8月が来ると、私は1945年8月1日の長岡大空襲の事を書く。私は100人近くの空襲体験者から聞き書きをした。(私は語り継ぐよりも書き残す事が大切だと思うから) 毎年、これを紹介することは苦痛である。気持ちが暗くなる。でも、日本が再び戦争を起こさないために、私が出来る小さな事として、今回から3回、長岡空襲特集をやらせていただく。 最後まで、読んでいただければありがたい。
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  8月1日の長岡空襲で犠牲になった人は1500人以上いる。(現在長岡市は1476人の名前を把握) それ以前の7月20日に中心地から3キロ離れた信濃川添えの左近という集落(当時、上組村)に大型爆弾が1発、落とされていた事は地元の人と日本の空襲研究(調査)者以外にはあまり知られていない。
 戦後、アメリカ側からの資料から、この大型爆弾が8月8日長崎に落とされた原子爆弾(俗称パンプキン)と同じ大きさ、重さ、高さだったことから、パンプキン型原子爆弾投下の実験だった事が判明した。
 これは原子爆弾ではないが、すごい破壊力があった。この1発で4人が亡くなり、2家が破壊された。直径30メートル、深さ20メートル以上の穴があいた。2キロ以内の民家や工場の窓ガラスは新藤で粉々に割れた。
 何故左近に落ちたかには諸説ある。新鋭の宮内理研軍需工場破壊説、長生橋破壊説、北長岡の軍需工場地帯破壊説などあるが、いずれにせよ、狙いが外れて、左近という農業集落に落とされてしまったのである。
 左近は8月1日の長岡空襲では90パーセント以上が家を焼かれたので二重の戦災を受けた事になる。
 私は当時から左近に住んでいる林勘一郎さん(左官会社経営)という日頃、尊敬している友達がいる。林さんから聞いた事実を、「長岡空襲60人の証言」(考古堂)の中に入れた。以下はその抜粋である。
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2009-12-15 09:26:10
2009-12-15 09:31:31
  左近の爆弾でできた穴は池となった     林勘一郎
 当時、私は国民学校(現、小学校)の2年生だった。昭和20年7月20日、朝礼で教育勅語を合掌してから間もなく、空襲警報のサイレンが鳴った。全校生徒はグランドに掘ってある防空壕に入った。(略)
 なかなか解除にならないので、家に帰って待避することになった.左近の集落にさしかかった時、突然、グァラ、グァラと雷が落ちるような物凄い音がした。
 分団長が「伏せー」と叫ぶと。全員は地べたに伏せた。私は怖くて震えていた。
 その大型爆弾は私達の所から200メートル位の距離の横山米作さんの隣の畑に落ちた。(略)畑でじゃがいも掘りをしていた横山さん兄弟(少年)は体がバラバラになって即死した。近くにあった横山さんの家は爆風で倒壊した。家の中にはお爺さんとお婆さんがいた。お婆さんは爆弾の破片で即死、おじいさんは瓦礫の透き間を這い出て助かった。近くを歩いていた赤ん坊を背負ったお母さんは破片が首に突き刺去って即死した。赤ん坊は助かった。
 この爆弾の振動で左近集落の家のガラス窓は粉々に割れてしまった。私の家から爆弾が落とされた横山さんの畑まで500メートル位離れていた。(略)
 私は話すのも恐ろしい事実を見た。爆弾でバラバラになった兄弟の胴体だけはすぐに収容されたが、手足はどこに埋まったかわか分らなかった。爆弾が落ちてできた大穴は、すぐに地下水が湧いて池のようになった。
 7月25日頃だったと思う。私は借りている畑に行った時、何気なく爆弾でできた水の溜まった穴を見た。何かが浮いている。よく見ると、それは人間の手か足だった。8歳の私は腰を抜かさんばかり驚いた。
 8月1日の長岡大空襲では左近集落で28件のうち、燃えなかった家は一軒しかなかった。(略)わが家も空襲で丸焼けになった。
 父は出征していた。残された家族は8人で末の弟は生後4ヶ月だった。(略) 
 10時半頃、B29の騒音とともに、宮内の理研の方から、焼夷弾が落とされはじめ、火の手が上がった。理研からだんだん左近の方へ攻めてくるのが分った。(略)
 私達8人の家族(母、祖母、20歳の叔母、姉、弟3人と私)は防空壕から火のない田んぼの方へ走った。500メートル位行った所に小川(用水)が流れており、その石橋の下にもぐり込んだ。(略)
橋の下で私の家が燃えるのが見えた。私の家は焼夷弾の直撃ではなく隣の家からの類焼だった。
 夜明けまで橋の下にいて、大宮集落の知人の家で朝ごはんをご馳走になった。
(略)その後、摂田屋集落の親戚の家で一部屋を借りている時終戦を迎えた。
 母と姉は借りた畑仕事が忙しかった。私は赤ん坊を背負ってわが家の焼け跡の後片付けに出かけた。(略)9月初め、近所の人から焼け跡に掘っ立て小屋(バラック)を建ててもらった。6畳ぐらいの一間に家族がひしめきあって寝た。(略)風呂はドラム缶の五右衛門風呂を共同で使った。
 宮内小学校も空襲で全焼したので、上組小学校の一部を借りた。(略)私は家が貧しかったので、弁当を持って行けなかった。昼飯を家に食べに帰った。昼飯はじゃが芋かさつま芋だった。「足りない分は水を飲んで我慢しろ」と母親に言われた。
 父は10月に復員して帰ってきた。父は左官だったので、忙しかったが、わが家は家族が多かったので生活は相変わらず苦しかった。(略)
 昭和28年、私は中学を出ると、東京の大手の左官屋に丁稚奉公に入った。3年間の修業は辛かった。(略)でも、あの時の修業があったからこそ現在の私がある。今の若者に「もっと、苦労して、我慢して、頑張れ」と言いたい。
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写真説明: 1、現在、大型爆弾が落とされた所に碑がある。(林勘一郎さんはこの碑の建てるのに尽力された)
        2、空襲後のバラックの家と五右衛門風呂。(「長岡空襲60人の証言」の挿絵から)
        3、碑の彼方は東山連峰。(反対側が信濃川)


             ゆらのと=峰村剛 (長岡市在住)


お知らせ:峰村剛(ツヨシ)で検索すると、詳しく出ています。         









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最終更新日  2009年12月15日 09時36分22秒
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