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長岡空襲・丸山ミヨさんの場合 2010年9月21日
8月のブログで入れようと思っていた長岡空襲体験者からの聞き書きがもう一つ残ってしまった。ようやく秋らしくなって、もう、戦争や原爆や空襲のことを忘れがちな季節になった。でも、この、悲惨な体験をした日本人はいつでも忘れてはいけない事とだと思う。今回のブログも私が自費出版した「長岡空襲・60人の証言」(考古堂書店)の中のお一人である。今回も暗いブログになってしまうが読んでいただけたらありがたい。 今回の長岡空襲を体験された方は丸山ミヨさんである。丸山さんはこの本を作るために私が長岡空襲の体験を聞かせてもらうまで、空襲のことはごく身近な人しか話さなかった。この本が多くの人に読まれ反響を読んでからは講演会で話しておられる。 講演の最後はこの本と同じように、「これからの子供のためにも、母として人間として、戦争を起こしてはいけない」と訴えられておられる。 --------------------------------- 平潟神社で焼死した父が私を呼び寄せたのか 丸山ミヨ 長岡空襲があった時、私は国民学校の2年生で7歳だった。そのころのことはほとんど覚えていないが、空襲のことははっきり覚えている。それほど生涯忘れることのできない痛ましい思い出なのである。 その時も今と同じところに住んでいた。(略) 空襲警報が鳴って防空壕に入ったが、あたりが燃え始めて危険なので、安全な場所に避難したほうがいいということになり、家を出た。 外に出ると真昼のように明るい。B29 画光を点滅しながら、低空飛行をしている様子がはっきりと見えた。焼夷弾が炸裂して、2,3軒前の家が燃え出した時、恐怖が全身を走った。 「商業学校のグラウンドへ逃げろ」、と誰かが怒鳴った。養父母と夢中で、防空頭巾の上に夏の掛け布団をかぶって、200メートル先の商業高校のグランドへ走った。熱風が台風のように、機、トタン、瓦を吹き上げる。昭和町の石油商店が燃え、ドラム缶が爆発して空中に舞い上がるのを見た。その度に近くの紙問屋の紙が、ひらひらと花吹雪のように舞い上がっていた。 商業学校のグラウンドの周りに建ててある低い塀に沿って、たくさんの人がびっしりうずくまっていた。グラウンドの隣の畑にも多くの人は非難していた。やがて、B29は畑をめがけて焼夷弾を落とした。(略) 商業学校の校舎が燃えるのを兵の脇の地べたにへばりついて見ていた。(略) 市の中央から逃げてきた人がグラウンドの中で力尽きて、ばったり倒れたが誰も近寄ろうとはしなかった。 表町国民学校の校長が「校舎が焼けそうだから手を貸してくれ」と、グラウンドに駆け込んできたが、誰も立とうとはしなかった。みんな自分を守ることで、精一杯だったのだ。数時間後、表町奥民学校は全焼した。(略) 恐怖の一夜が明け、やがて、家事も下火となったので、養父母と家に帰ったら、、わが家は焼けずに残っていた。それは石内の養母の父が駆けつけてくれて屋根に上がり、火消し棒で火を消したのだそうだ。そのおかげで、私の家から後ろの4軒は焼け残った。 そのときは大喜びだったが、後で、調べて見ると、火事場泥棒にあって、いろいろなものが無くなっていた。当時、物は無いし、人の心は荒んでいたのでそんなことは頻繁人会った。 長岡空襲後、家を焼かれた親戚や知人で3世帯一緒に住んでいた。 8月2日の昼過ぎ、近所の子供が。「平潟神社でたくさんの人が焼け死んでいるから見に行こう」と、言うので私はついて行った。男の子三人と女の子は私1人だった。なぜ、あの時、7歳の私がついていったか不思議でならない。途中、焼けた家がまだくすぶっていたり、土蔵が燃えているのが見えた。辺り一面臭気がただよっていた。 平潟神社に着くと、遺体が多くて中に入れない。遺体はどれも衣服が焼け、真っ黒だった。サンマの黒焦げのようだった。男女の区別も分からない。何もかけていない。大人の遺体が小さな遺体を抱きしめているのもあった。多くの人が家族や身内の人を探すために平潟神社に来ていた。棒で遺体を裏返しにする人。足で遺体をどかして見る人。そうせざるを得ない状況だったのだ。 私がそれからずっと、決して忘れる事ができない悲惨な光景、それは、黒焦げになった母親のお腹が破れ、胎児が顔を出している異体を見たことだった。 その光景はずっと私を苦しめ、私の脳裏から離れない。 大人になってからも、私は7月になると憂鬱になった。それは、長岡空襲の時期が近づいてくるからだ。私は長岡まつりの花火が嫌いだ。それは、花火の音と花火が夜空を赤く染めるのが、長岡空襲を思い出すからだ。今でも、親戚のお客でもない限り、決して自分から長岡花火を見ようとはしない。 これで、私の長岡空襲の話が終わったわけではない。私の人生を変えたもの、 それは戦争であり、長岡空襲であった。 このことは、私の生い立ちから始め無ければならない。 私の実母は未婚の母であった。実父の本妻には子供が2人いた。私は生まれるとすぐに、丸山米吉、春夫妻のところに養女としてもらわれてきた。実母はその後、別の人に嫁いだ。養父母は私を可愛がってくれた。 昭和25年、養父はトラックの荷台から落ち、打撲がもとで死んだ。養父の葬式の時、私は養女であることを始めて知らされた。そのときのショックは今でも忘れられない。 それから、しばらくして、実父と異母兄弟となる姉と兄が長岡空襲の時、平潟神社の境内で焼死していたことを知った。(新潟日報の長岡空襲特集から) 今、実父と異母兄弟の3人は無縁仏として、他の多くの人たちと一緒に四郎丸の昌福寺に葬られている。 8月2日、なぜ、私は近所の男の子たちと平潟神社に行ったのだろうか。あの、黒山の遺体の中に父や姉や兄がいた。3人が私を呼び寄せたに違いない。(略) 8月1日は長岡空襲で焼死した実父と、異母兄弟の姉と妹の命日の日である。私は、家の仏壇で静かに3人の冥福を祈る(後略) --------------------------------------------- 写真説明: 1、丸山ミヨさんの体験の聞き書きの挿絵(木村保夫画) 2、長岡空襲直後の市街地のようす。(長岡市編集「長岡の空襲」の写真から転載しました。この写真は私が出版した「長岡空襲60人の証言」にも転載させていただきました) ゆらのと=峰村剛 (長岡市在住) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年09月21日 16時11分27秒
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