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2011年06月19日
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五蘊を発明したのはユダヤ人

人間の命が何回か生まれ変わるという考え方、いわゆる輪廻転生という仏教の観念がありますが、これは仏教の情報です。輪廻転生するという証拠は、どこにもありません。人間の命から考えて、正当に理論づけることはできません。
仮にそういうことがあったとしても、現在生きている皆様の命を動かすことはできませんし、命を確立するためのプラスにはならないのです。
死んだ後に、自分の命が何かに移るとか、動物になる、鳥になると考えてみた所で、永遠の命が分かるものではありません。
そういうことがあるかないかを論じること自体が、無駄に神経を使うことになるのです。何にもならないことなのです。
命には生(せい)と命(めい)とがあります。生は宇宙にただ一つしかないのです。命は人間が生きている状態を言います。生は私たちが生まれる前からある命ですし、又現世を去ってからも継続するに決まっているのです。生は絶対です。これを知ることが、命を正確に捉えることなのです。
命(めい)はやがて心臓が止まるとなくなってしまうのです。私たちが問題にしなければならないのは、生の方です。命(めい)の方ではありません。私たちは生(せい)を認識するために、何をどう考えたらいいかということです。無理にとは言いませんが、できたら妄念は捨てたらいいのです。
進化論とか、資本論、フロイドの学説等も同様です。これはユダヤ人が造った妄念です。ユダヤ人は現実に存在する間、物質世界、人間世界、万物が存在している世界を、現実的な真実だと考えたいのです。
こういう考え方は、般若心経で言えばすべて五蘊であって、皆空なのです。進化論はダーウィンが、ユダヤ的な世界観を理論づけただけなのです。
進化論があろうがなかろうが、人間の実質には何の関係もないのです。学理学説はそういうものです。進化論はダーウィンの情報です。資本論はマルクスの情報です。情報を信じたい人は信じたらいいでしょう。
やがてユダヤ文明は地球上から抹消されるでしょう。そういうものに、あまり神経をお使いにならない方がいいのです。進化論も輪廻転生も、この世の肉体人間を理論づけただけなのです。命の解明には何の役にも立ちません。
生とは何か。これをお考え頂きたいのです。たくさんの学説が山ほどありますから、それをいちいち勉強していきますと、五百年生きていても足らないでしょう。ですから、必要なことを、必要なだけ勉強することが、効率的な方法なのです。
ダーウィンの理論を承認しても、命には何の関係もありません。理屈を習うだけのことなのです。進化論はユダヤ人が造り出した一つの理屈に過ぎないのです。
般若心経で言えば、現象的に人間が生きているという考えが、間違っているのです。そんなことは、般若心経で言わなくても、分かるのです。
人の命は、心臓が動いていること、呼吸をしていることです。瞬間だけのことです。今という瞬間しか命はないのです。
生の実体は何かと言いますと、今という瞬間です。このほかに命はないのです。皆様の心臓はたえず鼓動を打っています。このほかに命はないのです。皆様の心臓が、瞬間、瞬間を捉えているのです。皆様の心臓は最も確実に、今、今を捉えているのです。今を捉える音、働きが命脈です。鼓動です。
人間の生理機能は、今だけ働いているのです。この点医学は大変な考え違いをしているのです。人間の生理に、昨日、今日、明日という継続状態はあります。継続するということと、存在することとは何の関係もありません。継続は存在の伝承です。存在はあくまで瞬間です。
自分が生きているという考えが、根本から間違っています。自分が生きているという考え方のどこが間違っているかと言いますと、自分が固有名詞という名前で生きていますが、その事実はないのです。生きているという事実が、自分になっているだけなのです。簡単なことです。
自分が生きているのではなくて、生きているという事実が、自分として現れているだけのことです。今日の命は、今日だけの命です。明日の命には何の関係もないのです。
砂糖をなめれば、世界68億の人間は皆甘いと感じるでしょう。塩をなめれば、皆幸いと感じるでしょう。そのように、人間の生理感覚、味覚意識は、世界中に一つしかないのです。
一つしかない生理機能を、人間は68億あると考えている。自分が生きていると考えるからです。もし自分という人間が実在するなら、68億の命がなければならないのです。ところが、砂糖が甘いと感じるのは、68億人に共通する味覚です。
男も女もない。人間は一人しかいないのです。命は一つしかないのです。だから生というのです。
皆様は固有名詞の自分を信じておいでになります。皆様が信じているのは、個人が生きているという考えです。これが間違っているのです。個人主義は白人の思いつきでありまして、ユダヤ人がフランス革命で流した思想なのです。これが世界中に広がっているのです。個人が生きているという事実はありません。どこかの家庭にいるか、どこかの会社勤めている。どこかの国に住んでいるのです。空気、水、太陽光線の恩恵を受けているのです。そういうものに全く関係がない自分ということはありえないのです。
仏典に「尽天地尽衆生」という言葉があります。人間は天地と共に生きており、多くの人と一緒に生きているのです。そういうものに関係がない純粋の個人はいないのに、個人主義だけが勝手に一人歩きをしているのです。
個人が生きているという事実はありません。生きているということが、個人に現れているのです。生という事実が、固体として現れているのです。しかし、個人が独自に生きているのではないのです。生が主体であって、自分は従体です。従体は主体に勝つことはできません。生きているということがあるからこそ、自分という人間がいるのです。生きているということがなかったら、自分という人間はいるはずがないのです。
人間は何でもないことを考え違いをしています。これは文明のためです。ユダヤ人は個人を非常に尊んでいます。なぜかと言いますと、キリストに従いたくないからです。キリストに反対したいのです。神に反対したいからです。
ユダヤ人は神とキリストが大嫌いです。聖書を正しく捉えることに、ユダヤ人は心から反対している。それが進化論になって現れたり、資本論になって現れているのです。
ユダヤ人はこの世に生きている間が、人間だと思っているのです。これは大間違いです。生は永遠不滅のものです。その証拠を伸し上げます。皆様の人格は自分白身のものではありません。68億の人間が、世界に共通する概念を持たなければ、人間生活は成立しません。世界には一つの命しかないのです。
私たちは八十年か九十年の間、一つの命を経験しているのです。個々の命があるのではありません。従って、固有名詞の存在を確認しすぎると、命が分からなくなるのです。自分が生きていると思うと、生が分かりません。万人共通の命が分からなくなるのです。
これはイエスの断固たる主張です。これが分かれば死ななくなるのです。個人がいないということがはっきり確認できれば、その人は死ななくなるのです。
固有名詞の自分がいないということが分かれば、皆様が生きているのは神の実体であることが分かるのです。神の実体を、皆様は自分という立場において経験しておいでになるのです。神の実態を命として経験しておいでになるのです。幸いとか甘いとかいうのは、神の意識がそのまま皆様に伝わっているのです。
皆様が現世にお生まれになる前に、皆様は神と一緒に生きていました。神と一緒に存在していたのです。そのときの神のあり方が、神と一緒にいた皆様に移ってしまったのです。これが皆様の人格です。
人間はパーソナリティです。神のペルソナが、人間のパーソナリティになっているのです。これは私たちの霊魂が、生まれる前に神と一緒にいた証拠です。そうでないとすると、皆様の人格はどこから来たのでしょうか。この説明ができる哲学者も宗教家も、世界にいないのです。
ユダヤ人もこの説明ができません。人間になぜ人格があるのか、説明ができないのです。命が一つしかないことが、なぜユダヤ人は気にいらないのでしょうか。
ユダヤ人が間違った自尊心を人類に植えつけたのです。なぜ独立自尊と言わなければならないのでしょうか。これについては福沢諭吉も、答えることができないでしょう。これはフランス革命の妄念が、そのまま日本人に伝達されただけなのです。
自分が生きているという観念は、自分を殺してしまう最も有力な自殺方法なのです。固有名詞の人間が生きているという事実は、社会的にはありますが、人格的には存在していないのです。社会には固有名詞を持った人間ばかりがいるのです。社会的には固有名詞は必要です。生活的には有効ですが、命の実体から見ると国家社会とは何の関係もないのです。人間の命の実体は、本質的にこの世に生きていないからです。
なぜ個別の人間が存在するかと言いますと、人格の認識が千差万別なのです。例えば、Aが人格を持てば、Aが神と一つになって救われる。Bが神と一つにならなければ神に裁かれる。救われるものもあれば、裁かれるものもある。そこで百人いれば、百の人格の意識状態がある。人格は一つですが、それを捉える捉え方は百人百様になるのです。捉え方の違いはありますが、人格は一つです。
社会生活として固有名詞を使うのは当然ですが、皆様方の魂の問題を考える場合は、個々の名前を使わないで、生きていることを見て頂きたい。生きているという事実、リビングという事実を見て頂きたいのです。砂糖は甘く感じる。塩は辛く感じる。これが生きているという事実です。これが神です。リビング・ゴッドは生きていることが神ということです。リビング・ソールは生きている魂です。生きている神と生きている魂とがあるのです。生きている魂が生きている神をつかまえさえすれば、死ななくなるのです。これは当たり前のことです。これを難しく考えるから、間違ってしまうのです。
仏典に阿弥陀如来が出てきます。阿弥陀如来とは皆様の命の実体です。自分の命の実体が無量寿如来、無量光如来であることを、法蔵比丘という坊さんが悟ったのです。無量寿如来とは、人の心臓を動かしているエネルギーが無限という意味です。無量光如来とは人に宿っている理性の働きは無限であるという意味です。つまり人間は永遠の生命によって生かされているということです。だから阿弥陀如来になったということを大無量寿経に書いています。
皆様と法蔵比丘は同じことです。法蔵比丘は釈尊の別名だろうと思われていますが、釈尊も皆様も同じです。人の実体は皆、阿弥陀如来です。だから、固有名詞は初めから存在していないのです。社会生活上の習慣として、固有名詞を用いているだけなのです。
どうして地球は造られたのか。色薀という悪魔の誤った考えを自滅させるために、現在の世界が現れたのです。有形の世界、有形の人間が存在するというのは、色薀という悪魔の妄念を自滅させるためなのです。
これに気づけば、人間は絶対に死にません。皆様が生きておいでになることが神なのです。神が皆様の格好で現れているのです。これをつかまえたのがイエスです。イエスという名前は、神が自分の実態だという意味です。神が自分と共にいる。神が自分という格好で現れている。これがイエスの名なのです。
皆様が生きていることを客観的に見て頂きたい。主観的に見ないで、客観的に見て頂きたい。それだけでいいのです。人が生きている命を、冷静に、平明に、綿密に見ていく。そうすると分かるのです。
客観的な命を確認すると、生きていることが神だということが分かるのです。だから死なないことが分かるのです。神を自分という格好で、経験しているだけなのです。これに気づきさえすれば、心臓が止まっても死にません。神は死なないのです。死なない神が現れている人も、死なないのです。





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Last updated  2011年06月19日 05時54分18秒
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