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2011.08.27
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概念の世界

世の中には、宗教を信じている人が大へん多いのですが、仏教とか、キリスト教という宗教は、本来ないのです。人間が、勝手にあると思っているだけなのです。仏教教学、キリスト教教学はありますけれど、それは、宗教の仲間で通用する理屈であって、神の前には通用しないものなのです。私達は、永遠に通用するものを、求めなければならないのです。
この世を去りますと、寺も教会もない所へ行くのです。寺も教会もない所では、仏教もキリスト教も通用しないのです。本当の真理は、寺にも、教会にも、関係がないのです。
命の実質を、みきわめることです。
般若心経には、全く宗教らしい所はないのです。人間にご利益を与えるような事は、一つも書いてありません。だから、般若心経を写経して、千円をつけて寺へ送ると、坊さんは喜びますが、ご利益はないのです。全くむだな事です。写経というのは、心に書くものなのです。紙に書くものとは違うのです。自分自身の、永遠の命を考えるべきなのです。今の人は、般若心経の使い方、聖書の使い方を、知らないのです。
もし、キリスト教がなかったら、聖書を、今日まで、伝えることはできなかったでしょう。だから、今日まで、聖書を伝えて、印刷して、何千万部という聖書が世界中にあるのですが、キリスト教が聖書を持続してくれたという意味では、非常に良かったのですが、聖書の真理を伝えなかったのは、キリスト教の罪悪です。功罪、あい半ばすることになるのです。
キリスト教が、ぴんからきりまで、全部悪いというのではありません。ただ、教義が悪いのです。彼らが伝えた聖書は、すばらしいものです。それは、命です。命である神を、教義として考えたことが、間違っているのです、マルクスの唯物論でも、ドクトリンとして、世界に通用するのです。多くの人間が、それを信じているのです。
現在の文明は、概念ばかりの世界です。概念の他に、何もないのです。学問という概念、社会主義という概念、概念ばかりなのです。道徳という概念、法律という概念、政治という概念、命の実体は、どこにもないのです。骸骨ばかりなのです。
私達が、勉強すべきことは、生きているということです。英語では、リビング(living)ということです。
聖書には、ザ・リビング・ゴッドといっています。リビングが、ゴッドなのです。生きていることが、神なのです。これをつかまえたら、死なないのです。理屈はいらないのです。理屈をいくら知っても、リビングが分らなければ、命はありません。
人が生きていることが、リビングであって、これが、そのまま、救いになるのです。ただ、条件が一つあります。それは、自分自身が今まで考えていたことが、間違っていることを、はっきり認めることです。条件は、ただそれだけなのです。思想や教義の勉強は、命ではないのです。私達に必要なことは、そういう勉強ではなくて、命なのです。
問題は、イエスの名によって、どう生きるかということなのです。みかんを食べると、みかんの味が、魂の命になるのです。こういうみかんの食べ方があるのです。これは、イエスが経験していた生き方なのです。このような方法で、みかんを食べた事が、そのままイエスの命になったのです。
なぜ、そうなるのか。イエスは、父なる神のやり方を知っていたからです。人の大脳の細胞には、父なる神の処置があるのです。前脳皮質の細胞には、だいたい百四十億の細胞があると言いますが、普通の人は百四十億の細胞の中の、数%しか使っていないようです。学者の中の頭が良いと言われる人でも、一部しか使っていないようです。
今の人間は、自分の脳の使い方を知らないのです。神の実体が分り、父なる神の名が分りますと、初めて、頭の使い方が分ってくるのです。信じるとはどうすることかが、分ってくるのです。
キリスト教の中には、本当に神を信じている人は、いないのです。宗教観念を信じている人はたくさんいます。しかし、神の実体を信じている人は、いないのです。リビングが、父なる神の実体であることが、分らないからです。
現在、私達には、生きているという事実があります。生きている、リビンをいう事実がありながら、その実体を捉えようとしないために、概念や、観念、信念で、満足しようとするのです。これは、実に、困ったことです。困ったというより、もったいないことです。
生きている、目が見えるという事実があります。これが、神という事実なのです。
人間の命は、与件です。与件とは、与えられた条件ということです。人間は、自分で生れたいと思って、生れたのではありません。男性は、男でありたいと考えたのではない。女性は、女でありたいと思ったわけでもない。両親を、自分で選んだのでもないし、生れた年月日、国、民族を選んだのでもないのです。人間は、ぴんからきりまで、全部与えられた条件ばかりなのです。これが、生かされているということなのです。
自分の命は、全くありません。それを、人間は、自分が生きてけると思っているのです。これは、自力とか他力とかいうことではありません。自力といっても、他力といっても、実は同じことなのです。他力本願のアミダ仏でさえも、自力によって悟りを開かなければ、アミダにはなれないのです。他力の根底には、自力があるし、自力の根底には、他力があるのです。
自力、他力という分け方は、宗教の分け方であって、そういうものを問題にせず、現に生きているという事実、みかんを食べると魂の命になるという事実を、直視しなければならないのです。
私達は、この世に生れたのですが、この世に生れたことが、業(ごう)なのです。私達は、この世に生れた以上、生れただけの責任を果たさなければ、必ず裁かれます。私達は、生ける神の実体が、分るような能力を、与えられているのです。宗教や、哲学を勉強しないで、幼児のような、素直な気持ちになって、聖書を見るのです。
とにかく、地球ができたことを、はっきり教えてくれるのは、旧約聖書以外にはないのです。人間は、現在生きています。地球は、自転、公転しているのです。これは、地球が生きている証拠なのです。
命が、現在、現象的な形で、存在している。働いているのです。この実体をつかまえるのです。自分が救われようとか、何かを分ろうと考えると、だめです。できるだけ、無心になろうとすることです。幼児のような素直な気持ちになろうとすること、そうして、神の御霊の導きを受けるのです。
神の御霊は、実は、地球が生きている実体なのです。エネルギーの本質なのです。これは、思想的にも言えますし、物理的にも言えるのです。理論物理学は、神の御霊の原理の、ほんの一部を、少し説明しているだけなのです。
皆様は、せっかくこの世へお生れになったのですから、命を勉強する必要があります。これが、人間のあるべき生き方なのです。

























風の声

現在、私達が生きていることは、実は、そのまま救いになっているのです。
浄土真宗にこういう言葉があります。この身このまま仏であるというのです。東本願寺がこういう言い方をしています。即身是仏ということです。
ところが、西本願寺の方は、この身がこのまま仏である。しかしその身がそのまま仏ではないというのです。これなのです。
人間は、自分の考えが間違っているといわれますと、かっとするものです。ことに、宗教観念につきまして、あなたの宗教が間違っているといわれますと、かっとするものです。親の悪口を言われたことよりも、信じている宗教の悪口を言われる方が、もっと腹が立つのです。これは、人間の美徳の一つです。美徳であるから困るのです。
実は、皆様が現在生きておいでになることは、新約時代に、キリスト紀元に生きておいでになるのですから、生きていらっしゃることが本当に分かりさえすれば、皆様の命はそのままとこしえの命であることがお分かりになるのです。
キリストの十字架によって、世界が新しくされた。人間の運命が全く新しくされた。結論的に言えばこういうことになるのですが、キリストの十字架によって人間の運命が新しくされたということは、なかなか分かるものではありません。容易に分かるものではありません。
よほど純真に、素直に聖書を受けとろうという覚悟がなければ、なかなかキリストの十字架は受けとれないのです。
一人の人がすべての人にかわって死んだのだから、すべての人が死んだと聖書はいっているのです。新約聖書コリント人への第二の手紙五章十四節に言っています。そのように、すべての人は、すでに死んでしまっているのです。
ところが、皆様は、まだ自分は生きていると思っていらっしゃいます。だから、自分の宗教は間違っているといわれると、腹が立つのです。
皆様は、実は死んでいらっしゃるのですから、自分の宗教というものが、あるべき道理がないのです。自分の人生があるべき道理がないのです。
今、私が話していることは、皆様にとって荒療治すぎることかもしれません。ちょっと手厳しすぎるかもしれません。しかし、聖書の言葉によれば、肉の人間はすでに死んでいるのです。イエスが肉にて殺されたことは、皆様が全部肉にて殺されたことを意味するのです。イエスが霊にて生かされたことは、皆様が霊にて生かされたことを意味するのです。
イエスと共に死に、イエスと共に生きる。これが人間の絶対的な運命なのです。結論的に言いますと、こうなるのです。
日本人は、聖書を外国の宗教の教典だと思っていますから、どうしても受けとり方が間違っているのです。キリスト教を信じている人は、キリスト教の教義によって間違っている。キリスト教を信じていない人は、日本人の常識によって、聖書を間違えてしまっている。
例えば、内村鑑三氏のように、郵便切手になる人でも、間違っているのです。そういうことであって、本当に困ったことになっているのです。
聖書が正しく受けとめられていないということは、日本人にとって、非常に不幸なことなのです。この不幸を何とかして解消したいのです。例え一人の人にでも分かって頂きたいのです。私は聖書の言葉が命であること、イエスの名前、イエスの御名みな、神の御名が、皆様の命そのものであることをお話ししたいのです。
ご自分の人生観や生活状態に満足している人はたくさんいるでしょう。日本人に、そういう人はたくさんいます。自分の世界観、価値観で満足している人はたくさんいます。ところが、その満足していることが間違っているのです。満足しているから悪いのです。
本当に、皆様が死んでいるかどうかです。死んでいなければ、新しく生れることはできません。心をかえて新にせよと、パウロは言っています。イエスは、新しく生れなければ神の国へ入れない。水と霊とによって新しく生れなければ、神の国へ入れないといっているのです。
風の声を聞けといっているのです。風の声というのが、御霊の声です。これを本当に聞いて頂きたい。皆様が、心耳を開いて、風の声を聞いて頂きたいのです。
現在、本当の聖書が理解されていないことは、日本人にとって非常に悲しいことです。人間は法蔵といわれているものです。法蔵というものは、仏説阿弥陀経にありますように、阿弥陀如来が悟りを開くまでの名前です。法蔵という人は、自分自身の中に、無量寿と無量光を見たのです。自分自身の中に、阿弥陀如来があることを見たのです。これが阿弥陀如来の正体なのです。
皆様が、本当に静かに新約聖書をごらんになれば、阿弥陀如来が見た命よりも、もっとすばらしいものが見えるのです。極楽浄土よりも、もっとすばらしい神の国が見えるのです。どうぞ、自分の命をかけて、聖書を本当に見るというお気持ちを持って頂きたいと思います。
日本には、今、本当の命がないのです。宗教はありますが、命がないのです。





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Last updated  2011.08.27 10:36:45
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