少年法の理念:「少年の健全育成」
今日は、少年審判があった。事案は、ブログという性質上、あまり書けませんが、17歳の少年、よくある非行事実、としておこう。結論は、事前の鑑別所、家庭裁判所調査官の意見書等から、ほぼ確実に予測できていた保護観察となって、「少年院もあるかもよ」と教育上、私からも脅されていた(?)少年のほっとした笑顔が年相応に初々しくかわいかった。裁判官は、まだ若い方だったが、非常に良く準備をされていて、少年の拙い言葉に真剣に耳を傾けていた。目の前に座っている人が、自分のことを真剣に考えてくれているかどうか、少年にだって分かるのだ・・・というよりも、むしろ、成人以上に敏感だ。今回の少年に限らず、少年の前では基本的に嘘はつけない。誤魔化しもきかない。裁判官の真摯な姿勢を、少年もまた、そのまままっすぐに受け止め、二人の対話は30分以上も続いた。そう、「質問」というより「対話」という表現が今日の二人の姿には適切だと思う。「目標を立てていても、実現できるとは限らない。でも、実現できなかったからといって目標に向かった事実は決して消えない。目標に向かって真剣に一心に努力するその過程で得られるものは目標の実現以上に、もしかすると価値があるかもしれないんだよ」怪我でプロ野球選手になる夢が潰えてしまった少年に語りかける裁判官の言葉、必ず少年の心に響いたと思います。傍で聴いていた私ですら、心が熱くなったくらいですから。それにしても、事案がさほど重くなく、被害者も事実上いない事件では、少年事件の本来の目的である「少年の健全育成」(少年法1条)は、関係者の熱意さえあれば、非常に理想的に実現されることを、今日、改めて感じた。少年法は、改正(改悪)を重ねてきたが、やっぱり、世界に誇るべき素晴らしい理念を持っている。ただ、残念ながら、罪名が重い事件、被害結果や被害感情が激烈な事件では、少年の健全育成などという理念はどこか空の果てに飛んで行ってしまう。私は、これまで、強盗致死保護事件(原則逆送事件)、自動車過失運転致死事件(被害者の審判傍聴が認められた事件)、触法少年による性暴力が絡んだ事件(少年院送致になってしまった)を担当したが、裁判官も調査官も、少年に向き合っているのではなく、罪名と被害者に向き合っている姿勢が如実だった。本当は、重大な結果が発生した事件、被害者がいる事件こそ、少年の抱えている問題性は大きく、少年に向き合い、問題点を抽出し、対策を考えるという、丁寧に時間をかけて少年に寄り添う姿勢が重要になるはずだ。でも、そういう事件ほど、少年を置き去りにして、少年の内面に向き合わないまま、ただひたすら非難と叱責のみが加えられて審判が進んでいくことに、やるせなさと怒りを感じる。制度の歪みの中で、それでも少年法の理念に少しでも近付く付添人活動を続けていき、今日のような少年の笑顔を、沢山見たいなあと思う。なんのかんのといいつつ、私は、少年事件が好きです。まだ描いていない真っ白なキャンパスを目の前にしている若者に応援と励ましを送り続ける大人でありたいと思う。