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カテゴリ:石川県の民話 伝説
石川県の昔話 泰澄大師のお母さん
[泰澄大師のお母さん] [参考:白山の伝説より] 昔、日本には女の人は汚れているという考えがあり、女人禁制(にょにんきんせい)と呼ばれ、神聖な場所、修行場へ入ってはいけないとされていました。おそらく男女が一緒にいるとお互いの心を乱し修行の妨げになるからでしょう。現在ではこうした風潮はすたれ、女の人が神聖な場所へ入ることはほとんど許されるようになってきました。 ずいぶんむかしのことです。泰澄大師が法澄(ほうちょう)と呼ばれていた頃、白山へ登って修行することになりました。厳しい修行ですから、納得するまで何年も山から降りてきません。ところが法澄の年老いた母は、一緒に連れて行ってくれとどうしても言うことを聞かないのです。白山は厳しい女人禁制で、女の人は決して登ってはなりませんでした。 「私はこのように年老いた身、いつお前とこの世の別れになるかもしれぬ。母が子を案ずることはどの世界でも同じ、神々も決してお怒りにならぬはずじゃ。どうか私を連れて行って、お前の修行の姿をひとめ見せておくれ。」 「お母さんいけません。どうか分かってください。山にいてもきっと朝に晩にお母さんの方へ向いてお祈りをしますから。」 なんど法澄から言われても母はあきらめきれず、法澄が岐阜県の美濃禅定道(みのぜんじょうどう)を登っていったあと、母もこっそりあとを追って行くことにしたのです。しかし、山の天候は変わりやすく、切り立つ岩場も有り、年老いた女の人では厳しい道のりでした。母が石徹白(いとしろ)の山道を登っていると、突然空がかき曇り、稲妻の光とともに激しい雨が降り出しました。母はすぐに大木のそばで止むのを待ちましたが、大木の葉から冷たい雨だれがびしょびしょ落ちてきて全身ずぶ濡れになりました。雨が背中の袋や着物に染み込んで重く肩にのしかかりました。 雨が小降りになって再び登り始め、「おたけり坂」というけわしい上り坂にさしかかった時、とつぜん大きい雹(ひょう)がバラバラと落ちてきて体中を痛めつけます。母はたまらず、坂の途中の岩の間に逃げ込んで雹を逃れました。 やがて山の中腹へ至ると、先ほどの大雨で土がゆるみ、道の脇の崖がズルズルとくずれてきました。そして上の方から大きな岩が離れ、こちらへ落ちてきます。母は土に足をとられ、その岩をよけきれず、胸を打たれ下のヤブへ転がって行きました。しかし、母はヤブからはい上がってきたのです。道の上を見上げ、もう少し、もう少しで法澄に会えると、道をはいずって登っていきました。 そうして白山の尾根に来た頃には、周囲の視界が開けて明るくなり、はるか彼方の山々が一望に見渡せました。しかし、母の体力はもう限界でした。足も体も動かないのです。体はブルブルとふるえ、何度も意識が途切れます。母はもうダメだと思い、手を合わせて山の神々へ祈りました。 「ああ、山の神様、どうかお頼み申します。私の体が尽きても、あの子の姿をもう一度、どうか一度だけでも見せてください。」 法澄は、そのころ山の頂にいて弟子たちと一緒に座って祈りを捧げていました。と、その時、青空に薄っすらと大きな母の顔が現れたのです。その顔は法澄を見つめて涙を流しておりました。 「ああ、お母さん・・・」 全てを悟った法澄も涙を流し、お母さんに向かって祈りました。そのあとすぐ弟子たちと一緒に母の遺体を探し、手厚く葬り大きい石でお墓を作りました。そして母が法澄を探して再び山をさまよわないよう、しばらく石に封じ込め、安らかに旅立つまで毎日母に語りかけたのです。これを人々はのちに母御石(ははごいし)と呼び、白山の尾根に今も残っています。 (文責:津幡町 吉田恵一) [石川県昔話 目次] 岐阜県美濃禅定道には、泰澄大師の母が苦難にあった場所が名前を付けられ今でも残っています。リンクするのは失礼だと思いますので、矢印のあとをコピーし、検索窓に貼り付けトップをご覧ください。 (写真)→ みんなの白山 おたけり坂 ↑(写真をクリックすれば拡大します) (写真)→ みんなの白山 母御石 ↑(写真をクリックすれば拡大します) (登山体験)→ みんなの白山 美濃禅定道を登ろう □□岐阜県美濃禅定道宿泊施設□□ ハートピア四季 1人2食付9000円程度 白鳥高原ホテル 2人2食付1人8000円程度 ヴィラモンサン 2人2食付1人10000円程度 人気宿 ☆☆☆ 石川県 旅館 ホテルご紹介☆☆☆ [金沢駅前] [金沢繁華街・中心街・郊外] [河北郡] [七尾市] [鳳珠郡能登町] [能登町 農家民宿] [珠洲市] [輪島市 (1) (2)] [羽咋郡] [羽咋市] [白山市] [小松市] [加賀市] どうぞ きまっし石川→ホームへ戻る お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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