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カテゴリ:戦争と平和
8月9日。
長崎に原爆が投下された日。 いつものように、私は、子どもたちと長崎にいた。【左の写真は長崎駅】 1945年8月9日。 原爆を搭載したボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9600メートルの上空から第2号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。 彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市であった北九州・小倉と同様に、雲におおわれていたのである。 スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。 すでに燃料は、小倉から回って来た事もあり、相当消費しており、米軍支配下に入っていた沖縄の基地まで、どうにか帰れるという状態であり、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。 示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。 あと25秒。 そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。 そこは、浜口町の三菱グランドから三菱製鋼所、茂里町の三菱兵器製作所にかけての中間地帯だった。 「爆弾の投下は目視爆撃で行え」ということが示された重要命令だった。 そこで、ここが急遽投弾目標となった。 爆発は、目標地帯からおよそ500メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こったのである。 これが、65年前の惨事を引き起こした流れである。 私のつれあいは、小倉生まれ。 そして、つれあいの母親は、小倉育ち。 当時、小倉の街中に住み7歳だったつれあいの母親が、もしも、原爆が小倉に落ちているならば、私の子どもたちは、この世には生を受けていないのである。 そんな思いを毎年感じながら、私は、長崎を子どもたちと訪れている。 今年は、長男、二男、三男を連れて、城山小学校に行った。 当時、九州随一といわれた鉄筋コンクリート3階建ての校舎は、爆心地からわずか500メートルという至近距離で、強力な爆風と熱線を受け、この場で142名が即死をされ、校区内の1400人の児童が死亡している。 上の写真は、城山小の児童で、原爆で両親をなくした当時5年生の少年をモデルに、原爆ですべてを失った城山小の児童が、平和を希求して立ち上がる姿を描いた少年平和像。 学校の正門前にあるこの像の前で、城山小学校では、毎月9日を「平和祈念式」として平和授業がおこなわれており、この日も午前中、第709回目の「平和祈念式」がおこなわれていた。 城山小学校の体育館の裏手に、被爆したカラスザンショウの木が、ムクの木に支えられながらかろうじて生き手いる姿があった。【上の写真】 子どもたちと、世界が平和でありますように、そのためにも、1日も早く、核兵器がこの地球上からなくなりますようにと、祈り続けた1日であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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