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カテゴリ:福岡いいとこ一度はおいで
先月、ブログで取り上げた三菱飯塚炭鉱巻き上げ機台座。
いま、まだ残せるうちに、記録をとらないと、なんていう大それたことではないけれど、この目で見ないとすまない単なる親父の好奇心が旺盛なだけなんだが、田川地域の産業遺構を見に出かけた。 その最初は、福岡県田川郡福智町(旧方城町)伊方にある三菱方城炭坑の坑務工作室【下の写真】である。 これは、国指定登録文化財なのである。 この炭鉱は、1902(明治35)年開坑し、1964(昭和39)年閉山まで、多くの犠牲者を出しながら、操業を続けた炭鉱だ。 三菱方城炭坑ガス爆発事故は、1914年12月15日に発生した事故で、日本国内で記録されている死者数では最大の687人が犠牲になった忌まわしい事故なのである。 しかし、この数字は、会社の発表のものであって、実際の犠牲者は1000人を超えていたのではないかという説もある。 そして、いまだに、当時救出できなかった労働者が、この工場の地下数百メートルのところに眠ったいる。 また、ここでは朝鮮人の強制連行もおこなわれ、この三菱方城炭坑では3217人が坑内労働させられていたことも記憶しなければならない。 この土地に、九州日立マクセル【下の写真が現在の正面入り口】がやってきたのが1970(昭和45)年のこと。 赤煉瓦館は、工場の中にあり、とりあえず、受付に行って、「赤煉瓦記念館を見せていただきたいのですが」と言うと、困った顔をされて、「どちらから」と言われ、「福岡からやってきました」と言うと、「ちょっと待ってもらえますか」と。 社内電話で、なにやらヒソヒソ話があり、「係りのものが来ますのでお待ちください」と。 程なくして、やってきたのは、物腰の柔らかそうな人、それでいて頭の切れそうな管理職さんだった。 「どこで調べられましたか」と言われたので、「産業遺構としては有名ですよ」と言うと、「最近になって、時々、お客さんがこられるようになりましてね」とちょっと困ったような、うれしいような感じ。 そこから、この方の実に詳しく、丁寧で、的確な説明が、次々と始まったのである。 これなら、バスガイドも、旅行ガイドも、いらない(なにせ、無料)。 さて、写真の坑務工作室からは、大扇風機からの風を、坑内へ送風していたようだ。 この前方に現在の工場の駐車場があるのだが、そこに当時は竪坑があって、この建物から空気を送っていたという。 この建物で使用されている煉瓦は、通常のものより大きく、炭鉱開発のために特別に焼成したものとだと伝えられているとか。 総赤煉瓦の構造、半円形の窓や装飾など、ドイツ文化を多く取り入れたモダンな造りは、当時はかなり評判だったそうな。 赤煉瓦館の入り口には、近代遺産に登録されたことを証明するプレートがピカリと光る。 依然は、もっとツタに覆われていたが、ツタが強すぎて建物が持たないかもということで、根元から切ったために、現在は幾分小ぶりのツタとなっている。 この赤煉瓦館を工場の外から見たのが【下の写真】。 赤煉瓦館の脇には、ここで取れていた良質の石炭のとても大きな塊が、町から送られたと展示してある。 石炭もこうやって見れば、石でなく、木の化石にみえるね。 次の建物は、竪坑のすぐ脇にあった三菱方城炭鉱の圧気室。 次の建物は、風呂場。 当時は、男女混浴で、汚れのひどい状況ではいる風呂から、最後にきれいするところまで、何段階かに分かれて浴槽が会ったようだ。 手前の広場には、炭鉱の煙突が立っていた。 次の建物は、機械工作室。 現在も、日立が倉庫として使っていた。 訪問した日も、残暑厳しい日だったが、中はひんやりとしていて、その空気が歴史を感じさせた。 この倉庫は、官営八幡製鐵所で創業(1901年)直後に製造したとみられるレール2本を梁(はり)にしていた。 こちらの方が、専門家には人気のある貴重な建物だそうだ。 まだ、あまり知られていない、この赤煉瓦館などの建物。 人気が出る前に、一度出かけられてはいかがかな。 ただし、平日しか、見せてくれないよ。要事前確認のこと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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