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2011/11/22(火)22:10

武術が武道へと変わる時

ヨタ話(40)

- ヒカルの碁:ボクらの冒険 - 天才棋士・佐為に導かれるヒカルの姿に妬ましさを覚えた時もあったものでした・・・(爆) 本記事は「777」記事目の「ラッキー7」と相成るらしい。 想えば楽天日記と呼ばれていた時代から継続している本ブログ、意外に長命である(^^; ということで、何か記念になるような、何か恩返しにでもなるような記事を書きたいと想ったのだけれど・・・これが難しい。orz しかし、未熟で拙いことを承知の上で、長く付き合ってきた武道の話をしてみたいと想う。 二人の男性が正座して向き合い、一人が腿に置く手甲に、もう一人が掌を重ねて暫時、突然に甲に掌を重ねられていた男性が弾けるように後ろに仰け反り飛ぶ。 「自然と言う言葉から、穏やかな山や海などを想い浮かべていませんか?  自然には穏やかな面もありますが、猛々しい面も同時にありますよ。」 「そうか!!地震だって自然現象ですものね。」 「たとえば春夏秋冬が巡り、春には夏の、夏には秋の芽を含んでいることも忘れずに。」 そして再度、同じように暫時、今度は、もう一人の方が同じように後ろに仰け反り飛ぶ・・・ 傍目には、とても武道の稽古とは想えない光景であろうが、一身上の都合で道場を休会して以来、折を見ては稽古に付き合って下さっている、これまた諸事情で道場を休会した後輩の方との「武道の稽古」の様子だ。 人という存在が、また相対した人の間に生じていること、人と自然の間に生じていること・・・そういった全てが、いかに重層的で複雑な内実を持っていることか。 そのことに心底、驚きつつ、誰に認められることを求めるでもない稽古の時間が過ぎていく。 さて、人を傷付け殺しするという純然たる戦闘技術である「武術」が、何故に敢えて「武道」と呼ばれ得るのか? 現代武道において、その理由を明確に答え得るとしたら、私が真っ先に想い浮かぶのは弓道だ。 そもそも「武“術”」ではなく「武“道”」呼ばれるには、その「武(=戦闘技術)」を向上させるために“術”に増して“道”を修めることが必要であるという技術背景を持っていなければならない。 よく聞かれるものに人格形成や修養のようなものがあるが、「技術の向上と人格形成や修養が結び付く技術的背景」もないままに「道、道」と言うとしたら、それは牽強付会、言葉遊びとの誹りを逃れられない。 それは武道に限らない「道」を称する技芸を嗜む人々の共通課題でもあるが、特に「武道」は往々にして権威主義的だったり人品卑しく粗暴なだけの人間を生みだす遠因になってるだけに厳しく問われるべきだと想う。 人格などは不断の心掛けによって、日常生活においても磨かれゆくものだし、あらゆる技芸において心を修めることが重んじられていることに変わりもない。 そのような勘違いを生じるのは、実は「根本的な勘違い」があるのだと想う。 たとえば「武道」に示される「道」は、強調されがちな人格の陶冶や修養などではなく、むしろ中国の「タオ」の概念に近いものと考えた方が妥当である。 私には「近い」という以上には言い難く、そのニュアンスに微妙な差異を感じるのは、恐らくは「タオの概念」が不必要なまでに人為的だと感じるからであろう。 これは良し悪しの問題ではなく、私自身の中にも、古神道や修験道を生んだ、多分に日本土着の風土や感性があることによるのだと想う。 「武道」である明確な理由を答え得るとして想い浮かぶのが弓道であるとしたのは、ヘリゲルが驚嘆したという阿波研造のエピソードを真っ先に想い浮かんだからである。 そこには文字通り「道」があることを否定し得ないだろうし、また多くの「武道家」も謙虚にならざるを得ないだろう。 元々、追求する「道」そのもの自体が人格がどうこうという類のものではないにしても、中々に修め難いからこそ自然と謙虚にもなる。 あるいは自分のしがみついている「我」の小ささ、みすぼらしさや醜さと言ったものが明らかになり、その馬鹿らしさに気付くこともあろう。 先ず、こういったことを踏まえないと「武術」が「武道」へと変わり得る可能性にすら気付くことは難しいに違いない。 もちろん戦闘技術である以上、「強くなること」は第一義的に重要な要件なのだが、「単に強ければ良い」ことに終始するのであれば、技術に長ける必要などなく、むしろ武器開発に勤しめば良いのである。 実際、日本の戦場でもイの一に使用されたのは石・弓、後代には鉄砲の「飛び道具」であり、次に長得物と、「より有利に戦える武器」が先ずは手にされてきたのだ。 それでも日本の武士は、剣術は勿論、柔術などの徒手格闘技術までをも、流派として十二分に成り立つ程に大切にしてきた。 そこに、人間と言う存在そのもの、敵対する人間と人間との間に生じること、人間と自然との間に生じていること・・・戦闘技術においてすら、そのような諸々を驚嘆すべき繊細さとともに深く洞察し、独特の技術を築き得た先人の姿を見出せはしないだろうか。 では一体、どのようにして、武術は武道たり得るのか? 不親切で恐縮だが、その要点は「自然との一体化」「無心」などと示される通りであって(あるいは単に方法論や心得としてのみ示されることもある)、目新しくも珍しくもない。 だが、それは決して観念論とでも言うべき絵空事ではなく、明確な術理を背景に持つものだ。 だから、武術が武道になり得るのは「自然との一体化」「無心」といったことを通じて「強くな(れ)る時」だと言える。 「何故、そのようなことで戦闘技術としての効果が発現され得るのか?」 に対する答え。 それこそが「真の術理」とでも言うべきものではあるのだが、こればかりは体得するしかない。 古書にも多く残されてはいるので、言葉(理屈)でも示せるものの、結局は各人の体で(に)得ないと間違いなく大きく誤るという性質があって、本来は書けない(むしろ、書いてはいけない)ものなのだ。 ただ、誤解なき様に添えれば、術理を知(得)れば天下無敵の達人になれると言うようなものではない。 強くなれると言っても各人に応じる等の程度や分というものも厳然とあるのであり、 「ある日突然、(相対的な強さまでが)天下無敵の達人になれる!」 というのは小説や漫画の世界なら良いかも知れないが、残念ながら術理にすら反しかねない(術理に従った限界もあるのだ)。 しかし、その術理に対する理解の深化と体現を極め続ける限り、強くなり続けることが出来るとは言える。 もし、そういった術理を実感出来ないとしたら、(それ自体、多分に技術的な意味で)我が強いだけなのだと想う。 そもそも、厳しい時代に熾烈な修行・経験といったものを経て体得した古人達が残した教えなのに、浅薄な見方や経験に照らして軽視していては、得るものも得られないのも、至極、当然のことである。 しかし「自然との一体化」「無心」といったようなことが、そのまま戦闘技術向上に結び付く術理というものは、確実に存在する。 真に極められたなら、少なくとも体が動く限りは、遊ぶかの如く闘えるだろうと想う。 言い換えれば、体が動く限りは強くなり続け得る術理だということである。 そして、それこそが戦闘技術を「道」にまで昇華し得た「日本の武道」の真の姿である。 さて少しく不思議なのは、ブログのタイトルを「想」から「響」に変えたのが、調べると2010年06月17日。 たまたまシックリ来る一字だったというだけのことだが、以来、1年半弱。 「その答え」に近付く鍵が、私の場合は「響き」という一言にあったことだ。 *ここで「私の場合は」と書かねばならないことが、言葉で示すと誤る理由でもある 不遜、あるいは不愉快と感じられる表現もあるかもしれないが、出来るだけありのままに書こうとしたことを汲んで頂き、御容赦願いたい。 ようやく「武道の道場の入口を覗けたか?」という程度、まだまだ課題だらけで道も峻険なのが実際であり、先人達の背中は霞む程に遠い。 それでも・・・僅かとはいえ見えてきた空は、眩しく青い。 そして今、武術は武道となり得るし、「日本の古流は、本来、武道である」と断言出来る。 < 武道、その術理の欠片 > 直心影流の基本とされ、春夏秋冬に喩えられる「法定」の形。 通常は外部には見せないと想うんですが・・・アップされてたので。 戦闘技術を磨く武術に、何故、このような「形」が遺されたのか?

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