|
カテゴリ:イッテみますか?(取扱注意)
連続ですいません、「取扱注意!」シリーズで御座います・・・(爆)
で、孔子の苦闘 魂と命(取扱注意!)の続きのような、そうでないような??? 注:当ブログの例により、適当に書いてます 正しくはよびりん♪ さんや亞さんのブログを御参考下さい 「不食」というのが可能だと言うことは、ほぼ確かなようだ。 そのこと(不食)自体については特に疑問はないのだが、「不食の背景」については、現時点では分かりかねる事が多いというのが実感で、それを含めての個人的メモ。 「不食」を以て精神的あるいは霊的ステージが云々という意見があるのだが、私にとって、むしろ最大の課題であり疑問は、 「本来、完全に調和していたはずの宇宙なのに、 何故、不調和を生じて色々な神々や物質、生物や人間達を生じせしめることに至ったのか?」 であって、 「そもそものの原点であるはずの調和に向かわねばならない不調和を招いた理由は何なのか?」 ということで、この問いは、一つ不食に対してに限らず重要だと考えている。 あらゆる物質・生物に至るまでの「存在の根源」に関わることだし、それを神と言おうと何と言おうと同じでなのだが、「(人が)物質的存在であるか否か」という一点さえ除けば「相対的構造」を逃れていないことに変わりないからである。 「物質的存在か否か」 ということに関して言えば、「不食」は答えを得る一つのキーになるかもしれないが、それは「物質的・非物質的を問わない本質的な疑問(=相対的構造)」に答え得るものではない。 ここで少し視点を変えてみる。 「存在する(動)」を意味する「Exist」は、本来、ラテン語から来ていると言う。 [ラテン語「(外へ)踏み出す」の意; 【名詞】 existence,【形容詞】 existent] このことを言い換えれば「存在する」ということは「(外へ)踏み出す」ことと、元を同義にするということだ。 では、「何から何へ踏み出す」のか? この由来から一つ得られる答えは「(上は神から、唯一つの素粒子に至るまでの)全ての存在」が「“この世界”に踏み出したもの」であるということだ。 ストーリー的には陳腐なること至極で恐縮だが、 「全ての存在は、この世界への贈り物である」 と言えるということかもしれない。 Gifted Existence・・・ むしろ私達は「その意志、意味、理由・・・」をこそ知らなくてはならない。 そのことを知らず語らずして「レベル」を論じるとしたら、それが物質・非物質(精神)的と言った事であるかないかに関わらず「(優れている、優れていないという類の)相対的存在である」という足枷を逃れることは出来ない。 また、いかに「高次の調和」を満たしていようとも、それらが調和を要する時点で、既にして「個々に区切られた別物」として存在していることにも変わりはない。 私の感じ得る限り「全ての存在」は、安易な認識を遥かに超えた「絶対的にして、唯一つのもの(同根?)」なのである。 それは勿論、こうして現実に属している社会的、あるいは精神的倫理が不要であることを意味するものなどでは、決してない。 個々の集合体として存在している範囲で、その集合体に応じた倫理を要する事とは無関係の「存在の本質としての絶対」をこそ、私は知りたいというだけなのである。 それを仮に、そっと太字で「相対の果てにある絶対の地平」とでも言ってみよう・・・ そう言ったとて、面白おかしい話を聞けば大笑いするし、小さな命一つ消えゆく度に涙も零れる。 隣にいる君と笑い泣き、時には怒ったりするのであるし、間違ったことも大いにしてしまうんである。 あるいは、そんな私達自身こそ、母なる魂の頬伝う涙の一滴そのものなのかもしれない。 もし、最後まで読んで下さってしまった奇特な方がいらっしゃったら、どうおぞお聴き下さい。 こちらの方は、私の記事と違って(爆)「しまった!!」ということはないかと想います。 ♪ 空の無い街、抜け出し 虹を探しに行こう!! ♪ 桜 河口恭吾【合唱版】 注:当ブログの例により、適当に書いてます 正しくはよびりん♪ さんや亞さんのブログを御参考下さい
Last updated
2011.12.16 16:31:42
コメント(0) | コメントを書く
[イッテみますか?(取扱注意)] カテゴリの最新記事
|
|