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カテゴリ:取り敢えずの記
えっと・・・本が届きました、読みました(笑)。
尾張徳川、二代目・光友公の頃の話とか。 初代・義直公より仕えて五千石の御年寄にまでなった成瀬主計頭なる方あり、日頃から武士としての戦心得も忘れず、また下々の者ともよく交わったという。 その組下に市村六左衛門なるものが、武芸をよくするも気がさ者で奴の風体をしていたことから「市村奴」と称されていたそうな。 して、みずや得法なる金持ちの町人、いかなる手蔓からか光友公に取り入り、御前にも出る、お立ち寄りまで願うという栄え様。 ついには娘が尾張家重鎮、成瀬豊前守の側室になるほどで、一身の奢を極めていたと森銑三は続ける。 これが得法、ある年の平に遊女街を豪奢な衣服に身を包み、手代・小者を大勢従えて闊歩、従前、大抵の武士すら自ら一声を掛けて避けて通していた程という。 それを心憎しと想っていた市村奴と行き遭ったところが災難か、市村は得法を睥睨して避けるわけもない。 これが癪に障ったか、行き過ぎて「あれが市村奴というあばれ者じゃ」と共の者どもに吐き出すように一言、漏らし、手代・小者共も「どっ」と嘲りの笑いを市村の背に浴びせた。 ここで市村「おのれ」と言うや取って返して得法を拳固で一殴り、さらに投げ倒して踏み据えたという。 手代どもが主人・得法の一大事と寄るも片っ端から手玉に取られて寄る術もない。 日頃から憎く想われていた得法、他に助ける者とてなく、折見て、 「討っても棄てるところだが、それも刀よごしじゃ。助けてとらせる」 と踏み据えた足に力を入れて一蹴り加え、得法を転がし去ったという。 己の傲慢が招いたとは言え、怒りの収まらぬは得法方。 そこは権力に近い金持の定法、あれやこれやと焚き付けて、ついに市村奴の切腹を言い付けるに相成った。 ここに市村奴の主、成瀬主計頭が登場して快く市村奴の切腹を承り、 「して得法儀も、定めて磔で御座いましょうな」 と成瀬豊前守に問うたという。 「いや、さようなことは御座らぬ」となれば当然であるが、 「得法が磔にならぬ内は、市村に腹を切らせ申す事は、 この主計頭が身命に懸けて御断り申上げまする。」と。 次第からすれば命を助けた市村も手ぬるいとまで言って一歩も退かぬ。 揉めに揉めたが君寵笠に奢る得法の傲慢も知れ渡っており、叱責にて相済んだが、市村には御叱りを、との言葉。 成瀬主計頭、上の言葉通り市村奴に以後、謹みおれと言うに加え、 「但しまた、重ねて勘忍の相成りがたき儀もあらば、 何時なりとも相手を斬り棄ててよかろうぞ」 と、一段と声高に言い付けたという。 得法を憎んで市村奴の肩を持っていた家中の面々、 「さすがは主計頭殿のなされ方」と褒めそやしたという。 一方、市村奴の切腹を聞いて喜んだも束の間、左様な次第を聞き及んだ得法は、以降、迂闊に外へ出ることすら出来かねる仕儀と相成ったとの御話。 その間の動静伝えられぬ市村奴も、奴さんらしい。 まだ江戸初期の、戦国の熱冷めやらぬ武士気風も残っていた頃の話と言えようか。 ちなみに私は、そんな乱暴者ぢゃないですので誤解なきよう・・・(滝汗) でね・・・やっぱり私にピッタシの絵は他にあると想うんですのよ(爆) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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