アメリカ人作家「スコット・フィッツジェラルド 1896-1940」の「グレート・ギャツビー」はまだ大学生の時に読んだ記憶があり、友人が日本から送ってくれた村上春樹訳の本は読まずにそのままになっていました。昨年ブログにフィッツジェラルド著「ジャズエイジの物語」のジャズエイジって何だろうを書いてから、ふとグレート・ギャツビーが気になり出し読み返していくと「果たして私はこの小説を本当に読んだのか?」と思うほど全く新しい小説のように感じました。
「訳者あとがき」に村上春樹氏は20年の構想のもと「自分の人生で出会った最も重要な本」として渾身の思いと最大限の努力をもって翻訳した「グレート・ギャツビー」は、およそ100年前に執筆された時代の話ではなく現代の話として蘇えらさせることに注力を払ったと書かれています。
物語はロングアイランドでギャツビーの豪邸の隣のコテージを借りて住む語り手でありギャツビーの友人となる「ニック」、ニックの従妹の「デイジー」、彼女の夫「トム」、トムの愛人とその夫、デイジーの友人「ミス・ベイカー」がお互いを巻き込み、巻き込まれていくひと夏の出来事で、中盤までは私には単調な流れでギャツビー邸で繰り広げられる豪勢なパーティーの詳細とギャツビーとは一体何者なのかという憶測が描かれています。
中盤以降デイジーとギャツビーの過去を知りギャツビーに心が傾いていくデイジーにトムが自分のエゴをむき出しにしながら、ギャツビーの父の「もし息子がもっと生きていればきっと偉大な人物になっていたはずだ・・」と言わせるまでの展開には息を飲むものがありました。
村上春樹氏曰く、フィッツジェラルドの登場人物の会話の描き方、文章の独特のリズム感、珠玉の文章は翻訳で表現するのは至難の業で出来れば原書を手に取ることをお勧めするとありますが、翻訳の難しさと唯一無二の作家と評される理由のような物がこの翻訳から十分伝わってきます。
因みに「グレート・ギャツビー」は出版時には高い評価を受けても爆発的に本が売れることは全くなく1930年代には絶版にまでなったそうです。その数年後には40歳の若さで亡くなったフィッツジェラルドは深刻なアルコール中毒者で妻のゼルダは発狂の後精神病院で暮らすという状況でした。それでも書くということや文学に対して常に前向きな姿勢を持っていたようで、ふと画家のゴッホの人生とも相まって村上春樹訳を読んでからこの本が私にとっても大切な一冊となりました。「グレート・ギャツビー」がフィッツジェラルドの死後、再評価されることになったことや画家達が渾身の思いと情熱で描いた絵が死後評価されることになるというのは、何か時代を先取りし過ぎてしまったのだろうかとも思ってしまいます。