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星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

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2023.02.08
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​​ 先週の土曜にNHKで「札幌雪祭り」の特番・ライブの放送があり壮大で華麗な雪像群の映像に見入りました(新庄監督の雪像の表情には💦でしたが・・)

 そして雪像以外で札幌雪祭りで思い出すのは会場となる大通公園の一画に設けられる「北方領土返還要求の署名コーナー」です。勿論道民として返還を強く望んでいますが、札幌に住んでいた時は署名をした記憶がなく、また2月7日が何故「北方領土の日」なのか考えた事がありませんでした。

 興味を持ち始めたきっかけは百田尚樹著「新版 日本国紀」や池上彰著の「世界の大問題13」の中に19世紀に頻繁に日本海に出没し始めたロシア船への対応策や開国要求の変遷が書かれていた事です。

 調てみると「北方領土の日」が制定されたのは今から42年前の1981年で北方領土の返還を求める多くの団体からの要望で閣議で決められたようです。そして2月7日というのは制定から126年も遡った幕末の1855年2月7日で江戸幕府がロシアと「日露通好条約」を結んだ日でした。

       
1855年の境界線(赤線)で樺太は両国民の混住  ​1951年サンフランシスコ条約での境界線​
 
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 当時のロシア側の代表は「プチャーチン提督」で北方4島が日本領である事を両国で確認しています(国境は択捉島とウルップ島の間)その後日露戦争(1904-05)の日本の勝利や第二次世界大戦の敗戦によって領土や国境については違いが生じていますが、興味深いのは1951年の敗戦後のサンフランシスコ条約では北方4島に関しては日本領となっている事です。ただこの条約に関しては当時のソ連が署名を拒否し現在に至っているというのが領土問題が解決されないまま長く続いている原因です。

 歴代の首相も返還に向けて努力をしてきたと思いますが(特に安倍首相は2014年のロシアのクリミア侵攻では返還を有利にするために欧米の経済制裁には加わらなかったという記事を読みました)そして2016年プーチン大統領が来日した時に大きな意味を込めて安倍首相が手渡した168年前の日ロ友好の証の「ヘダ号の絵」・・・。

 現在のロシアのウクライナ侵攻の状況でロシアに対して日本が経済制裁を行っている事を考えると返還への道のりは更に遠のいた感がありますが、書名活動も含めて長い時間をかけてでも一歩ずつ返還への道のりへと思いを新たにしました。

​​『追記』2月15日​
 昨日のロイターの記事にロシア外務省が北方領土の日に絡み日本がロシアに悪意ある攻撃を行っていると非難したとありました。その中で北方領土に対して日本が根拠のない領有権主張を行っていて、日本が歴史を書き換え戦後の現実を無視していると批判したようです。日本の外務省はその件についてコメントを発していないようですが、それでは1951年の「サンフランシスコ条約」での取り決めはどうなっているのだろうと・・・。当時のソ連はこの条約への署名を拒否しているということですが書名拒否のまま72年も決着を付けずにそのままになっているという現実に改めて驚きます。

​『追記』2024年2月16日
 昨年末に本帰国をして物珍しさから札幌駅とすすきの駅を繋ぐ地下歩道(通称チカホ)でのイベントをチェックしていて「北方領土展」を見つけました。4島の歴史、雄大な自然、生息動物などパネルで丁寧に説明があり、北方領土を直にこの目で見てみたいと強く思いました。初めて返還要求の署名もして何だかやっと義務を果たしたような気がしました。雪まつり開催時は「返せ、北方領土」の看板も街中で見かけましたが、つくづく1951年後のサンフランシスコ条約の後の「国連」の対応や「5大国一致の原則」には疑問を感じます。






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最終更新日  2024.02.16 17:42:06
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