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カテゴリ:本帰国で再発見!
渡星前に実家に預けていた画集の何冊かを昨年末に送って貰い、その一冊「印象派・光と影の画家たち」の最後の8ページに掲載の「林忠正と印象派の画家たち」の別稿を読まずにいた事に気が付きました。この別稿の筆者が林忠正の孫「木々康子」さんで、画集が44年前の1981年発行である事にも驚きました。
原田マハ著「ゴッホのあしあと」の中で氏は『このまま日本人が林忠正が残した功績を知らずにいるのはもったいない。私たちはもっと彼について知るべきだし、その偉業をシェアするべきだと思う。小説「たゆたえども沈まず」を書く目的の1つは19世紀パリで活躍した画商・林忠正の復権にある」と書いています。私自身も「たゆたえども~」で初めて林忠正(1853-906)の存在を知りました。 日本でフランス語と工学を修めた後、1878年のパリ万博開催に当たって林忠正25歳の時に「起立公証会社(副社長は若井謙三郎)」の依頼で通訳として初めてパリを訪れ、そのままパリに留まることになります。巧みな語学力と日本美術の知識でフランスを中心に浮世絵などの日本美術を広め、印象派や後期印象派画家たちへ多大な影響を与える一方で印象派の画家たちの絵画の購入も積極的に行い、いずれは日本に美術館を建設してその絵画を展示するというのが「林忠正の夢」でもありました。 ![]() ルノワール(1841-1919)のデッサンによる林忠正(ルノワールへの援助にも尽力を) 彼の偉業に対してフランス政府から1894年と1900年に2度「教育文化功労章」を受賞し、また同年1900年には「レジオン・ドヌール」を受賞しています。これに対して日本で林忠正の名前がある意味消されてしまったのは「浮世絵を海外に流出させた国賊」としてのレッテルを貼られた事も一因なのだと思います(木々康子さんの記述では1890年から1900年までの10年間で10万枚もの浮世絵をパリに送ったとあり、それ以前の数については分からないですが浮世絵で膨大な利益を得たのは事実とあります) 江戸時代に浮世絵は蕎麦一杯の値段(16文程度)で売り買いされ、その価値が日本ではあまり評価されていなかった事を思うと、このレッテルは安直で的外れという気がします。浮世絵で得たお金はヨーロッパの絵画を購入する資金となり、いずれは日本の芸術家たちに見て欲しいという大きな夢があった事を思うと猶更です。 余談ですが、小説「たゆたえども~」の中では林忠正とゴッホ(パリにいたのは1886年2月~1888年1月)が直に会っていたという設定ですが、これはあくまでも小説の世界で実際に会ったという証拠のような物は一切残っていないようです。何故会えなかったのかが個人的には疑問でしたが、木々康子さんの別稿を読んで謎が解けた感じです。林忠正が経営するお店では顧客は金持ちの「ドガ」や売れ始めた「モネ」や「ピサロ」等に限られていて、ゴッホやゴーギャンのような貧乏な画家はお店に近づくことも出来なかったと書かれています。ゴッホは当時林忠正と同じように浮世絵も扱っていたユダヤ系ドイツ人の画商「サミュエル・ビング」のお店で無償で浮世絵を模写させて貰っていた話は有名ですが、彼のお店は開放的でお金がある無いに関わらずオープンだった事も初めて知りました。ただ閉鎖的も商売の上では数々の利点があったようで、商売人の林忠正の力量も見る思いです。 ![]() 増刊「中央公論」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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