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星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

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2025.05.23
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カテゴリ:本帰国で再発見!
 5月13日放送のNHK「知恵泉 不屈の美術商 林忠正」で1900年開催の「第5回パリ万博」の「日本古美術展」に林忠正(1853-1906)が大きく関わっている事を初めて知りました。

 ​当初明治政府は万博には熱意を持たなかったものの、日清戦争にも勝利した日本が世界へ日本文化をアピールする絶好の機会と説得も続け政府の要人である「伊藤博文」や「西園寺公望」等から推挙を得て、1897年に博覧会事務館長に抜擢されます(一介の商人の就任に嫉妬や悪口が渦巻いたそうです)その時の政府からの指示はパリでの美術商を止めることで、それに従った林忠正は事務館長に全権をほぼ任せる事を条件として提示し報酬も一切受け取らなかったそうです。

      
館内の間口24メートル、奥行き18メートル(1900年) ​実物の法隆寺金堂(ネットの画像)​
 
 3年に渡って準備のためフランスと日本を何度も行き来し宮中の財宝を借り出す事については明治天皇に直に謁見して「もしその財宝が消失してしまったら・・?」と明治天皇に聞かれ「自身も死ぬ」と答えたエピソードも紹介されました。当時船便で1ヵ月半もかかる事も危惧し、展示する作品(総計381点)の1割ほどは林忠正自身が携えてパリに持ち込んだようです。

 「法隆寺金堂」を模した建物がパリセーヌ川の右岸にある「トロカデロ」の会場に展示された写真がウィキペデアにありました。フランスで調達した材料で建てられたそうです。日本文化や芸術が浸透し始めたパリで日本古美術展は大成功を納めます。ただ林忠正にとって不運だったのは、それまでの海外の展覧会では売れ残った品を投げ売りのように現地で売りさばく事が慣例になっていて、それは日本の芸術の価値を下げ、また開催国の商人に大きな損害を与えていたため「日本商人の商道徳のなさ」が各国から糾弾されていたようです。「世界の商法」に従おうとする林忠正と日本商人との戦いです。ほぼ現代に至るまでの「国賊」扱いはどうも浮世絵を海外に流出させたという事よりこの日本商人との戦いにあったようです。

 それにしても万博から6年後に病で倒れるまで自身が鬼集した印象派絵画などを展示する美術館創設の夢を持ち続けた事まで考えると「日本文化(芸術)を世界に知らしめた名誉ある人物」として完全な「汚名返上」を願うばかりです。









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最終更新日  2025.05.23 11:32:46
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