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テーマ:暮らしを楽しむ(383418)
カテゴリ:ミニマルに暮らす
この花柄のワンピースに一番似合う履き物は。
というよりも。 わたしの持つ全ての服に一番似合う履き物は もはや「長靴」なのではないだろうか、 とさえ思えてくる・・・2021・梅雨。 この日は郵便局へ。雨だからやめよ・・・ではなく、雨でも歩いて行くぞ!ってなれます。 *************************************** 秋や、冬には、ブーツの代わりに。( ★ ) お出かけの後は丸洗いに。( ★ ) 長靴は、本当に重宝しているのだけれど、 1年で一番に活躍するのは、 やっぱり今です。 「梅雨時」です。 ミニマルライフに目覚め、 えいやーっ!っと 勢いよく手放しを始めた頃、 とても早い段階で、わたしは長靴を見限ったのです。 「もういらないわ。」と。 もう芋掘りもない。 雨の中の交通当番もない。 土砂降りの参観日も、 雪の中の引率も、 長靴が必要になるようなレジャーもない。 ない! ない! ない! もうわたくしには、何にもない!! と。 ええい! なくて結構!!!! と。 ちょっとやけくそだったかもしれないですね ( ;∀;) ************************************** なくても大丈夫と思えるものでも、 あったらあったでこんなに履くものもある。 「手放し」と「手に入れ」の、見極めの・・・ 何年経っても、 これが一番のむずかしさなのかもしれません。 こればかりは、どなたかにお尋ねしてどうにかなるものではないのです。 たとえば「長靴捨てても大丈夫でしょうか」 「長靴ないことで困らないでしょうか」と、 一人で決められないと、 つい失敗が怖くて誰かに助けを求めたくなってしまうのだけれど・・・ これは、本当に自分が捨ててみないと わからないです。 やったー!スッキリしたー!という時期が、まず最初にあって、 ※ もうそれだけで十分に価値がある、とわたしは思います。 よし、ほらみろ、捨てても平気だったぞ、と 思い出してはニヤリとほくそ笑む時期を経て、 いやー、長靴いらなかったなあ・・・と、 なぜかしみじみと振り返りたくなる時期があり、 何年も何年も「本当に平気な時期」「不要な時期」というのが ちゃんとあり、 そして! ところが! 突如! ある日!!! うわ、こんな土砂降りの中を歩くことになるとはー (´;Д;`) という 予想だにしなかった状況が、 避けて通ることのできない種類の出来事が、 何の前触れもなくおとずれる。 それは人によって全く違うし、誰にもわからない。 そこを意地はって突破して、 一度捨てたものなど死んだって買ってなるものか!と抗うこともできたかもしれないけれど、 わたしはそうはせず、素直に買い直しました。 起こるべくして起こったことの「自然な流れ」に従いました。 手放してみて、どうしても必要だとわかったら、また買えばいい。 その時はまた、その時の「本音」に従えばいい。 これを頑なに禁じてしまうと、 何かを手放すことに対し、人はとても臆病になるのかもしれません。 これを自分で自分に柔軟に許すことで、 何かを手放してゆく勇気を、 人は持てるのかもしれません。 春の嵐の日。 おとーさんの手術だった日。 ずぶ濡れになった靴下を 行きも帰りも駅のベンチで履き替えながら、 この困った気持ちが、 この泣きたい気持ちこそが今の本音なのだわ、と、 わたしは気づいたのでした。 *************************************** 6年前の夏。 hunter の長靴、捨てなければよかったのか。 捨ててしまった負け惜しみではなく、 それはまた、やはり違う、と、わたしは思うの。 手放してスッキリしたうれしい気持ちも 無くて大丈夫だった長い年月のことも、 あの雨の日の困った気持ちも、すべて覚えてる。 その上で、今長靴があって嬉しい気持ちを、改めてちゃんと感じている。 一旦手放してみて、の、今がある。 距離をおいてみて、の、今がある。 全て経験してから、の、今がある。 自分で経験して感じた、ということの意味の大きさ。 そこを知らぬままに 挑戦せぬままに 「いつか使うかも」という強い信念でもって 悶々と、あるいは頑なに、 またはとても邪魔に思いながら持ち続けていたとして・・・ いつの日にか本当に「出番」が訪れたとしても、 それが本当に幸せなのか、正しかったのか、という比較は、 比べようにも、 ちょっと一概には比べられないところがあると思うのです。 ************************************** ただ、わかるのは。 ずっと昔に買った長靴を、 今よりもうんと若い頃のわたしが買った、 その時の趣味や好みや感性で選んだ長靴を、 幸いにも? 不幸にも? ずっと捨てずにいたとして、 50歳になった今、いざ、履いたとして。 きっとあまり嬉しくはなかっただろうな、ということ。 捨てなくてラッキー!とは思ったかもしれないけれど、 この長靴のように、 雨の日や雪の日のわたしを、 こんなに安心させたりウキウキさせてくれたりは できなかっただろうな、ということ。 そんな「パワー」は、 あの長靴には、もう残されてはいなかっただろうな、ということ。 服やものには、 それが発する「パワー」「エネルギー」のようなものが必ずあって。 そしてそのパワーやエネルギーというのは残念ながら永遠ではなく、 尽きるときが、必ずくる。 人にも その時その時のパワーやエネルギー、 目には見えない「波動」のようなものがありますから、 エネルギーの尽きたものを持つと・・・ どこか「あ、尽きてる」と、わかるのです。 ものは、使わなくても古くなりますから。 1秒ごと、古くなりますから。 その「もの」と自分自身との波動が大きくずれている、 もう合わなくなっている、ということに・・・ 「なんか、うれしくない」という感情と体感で、 人は、気づきます。 ********************************** わたしもパワーに満ちていて、 その日身につける服や靴や持ち物も 同じくらいのパワーが満ち満ちていてくれたなら、 それって、最高だと、最強だと思いませんか ( ´▽`)? ************************************* 少ないもので暮らす中で。 お金を大切にする、って、 ひたすら使わない、ってこととはまた違うのだ、と わたしは知るのです。 ものを手放し始める少し前、 お金に執着しすぎて守銭奴化していた時期が わたしにはありました。 苦しかったです。 それでも色々なものが欲しくて買いたくて、 けれどもお金が減るのはとても嫌で、 だから本当に欲しい物を我慢して 少しでも値段の安い方で妥協しようとする、という 悲しい癖が、なかなか治りませんでした。 そのせいで。 そんな買い方ばかりするせいで。 わたしの家は「死蔵品」だらけになったのです。 1軒の家での死蔵品(買ったけれど使っていないもの、いらなかったもの)の額を およそ、仮に「1000円」とした場合・・・ 今の日本の世帯数を約5340万世帯として計算すると その金額って、約534億円にものぼるのだそうです。 すごい額に驚いてしまうけれど、 1軒の中での死蔵品が「わずか1000円分」なんて、 ちょっと考えにくいですね。 10倍?20倍?は、軽くあるんじゃないのかな ( ;∀;) 我が家に死蔵品って、今、どのくらいあるかしら。 あれ・・・思い当たらないです。 もしかすると、今は、ひとつも? 1円分もないのかもしれないです ( ´▽`) 長傘と、長靴は、雨の日の最強タッグだ。 ふつうの靴では、不安です。 折りたたみの傘も、わたしはちょっと不安です。 (強度的にどうしても頼りなく感じてしまうのと、たたむのが面倒です。) 雨の日も 楽しく、安心して過ごせることの幸せ。 そうか、去年のいま頃は、 まだこの長靴は持ってなかったんだっけ。 購入したのは、2020年の秋のはじめ頃でしたものね。 ミニマルライフを始めて以来、 「長靴のある梅雨」は、わたしは初めてなんだな。 どうりで嬉しいわけです。 去年やその前と同じように雨が降っても、 ぜんぜん気が滅入らないのは・・・そうか、そういうわけでしたか。 お気に入りのものもつパワーって、すごい。 買うことを我慢しなくてよかった。 他の長靴で妥協したりしなくてよかった。 雨の日の長靴パワーを、雨の降るたび、嬉しく知る。 なんどもなんども 知ることができる・・・ そんな「2021・梅雨」です。 おわり 今日もお読みくださって ありがとう。 ↓ いつもポチッとしてくださって、ありがとう ( ´▽`)ノ にほんブログ村 みなさんのお気持ちがいつもとても嬉しくて、わたしはブログを書けているのだと思います。 今日は朝から気持ちの良い青空です。 お洗濯ものも、よく乾きそうだ! フォローをしてくださっている1229名ものみなさま・・・ 更新を楽しみに待っていて下さるお気持ちを、ありがとうございます : お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.06.19 11:38:35
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