ふつうの日が、好きです。
お出かけの日も楽しくて好きですよ。
けれども、どっちかだけを一生続けなさいと言われたら、
わたしは迷わず「ふつうの日」を選びます。
ミニマリストさんには
そういう方が多いのではないかな?
とってもお天気の良い、
もの音ひとつしない、
静かな静かな ふつうの日。
夏のお布団から冬のお布団に、
家族それぞれのタイミングで入れ替えました。
(申告制)
おとーさんからは、
今朝ようやく申告がありましたので、
今夜から、冬のお布団です。
(よくここまで耐えたな・笑)
来たる寒さはきびしくツラいのに、
冬のお支度というのは、
ニットでも、コートでも、お布団でも、
心がとてもポカポカしますね。
ニットは「エマール」で洗うので、
冬の寝室は、いつもエマールのいい香り。
黄色い方のパッケージのエマールの香り、
すずひ家の人々、みんな、とても好きー ( ´▽`)
家事って、暮らしって。
行動の源は、
「どうにかしてあげたいの気持ち」がほとんどのような気がするのです。
人はツラそうな人や、
お腹を空かせた人を見ると、
反射的に「どうにかしてあげたい」と思ってしまうものと思います。
どうにかしてあげたいという気持ちって・・・ずっと「優しさ」なのだと思ってた。
小さい頃から、そう教わってきたような気もします。
けれども。
電車の中で体調の悪そうな人に声をかける、席を譲る、などは別として、
なんでもない時の、ふつうの時の、とりわけ「メンタル的」なことにおける
「どうにかしてあげたい」とか「どうにかしてあげなくっちゃ」というのは・・・
そのほとんどが、実は。
「その人の思い上がり」なのですよ というお話を聞きました。
えー、そんなー (;_;)
困った人を放っておけないのだから、
めっちゃ優しく親切な人、って感じがするのにー (;_;)
「どうにかしてあげよう」は。
深層心理的には、
こちらが相手を下に見ている証拠の「思い上がり」に他ならないのだそうです。
ボタンがうまくはめられない、
靴紐をうまく結べない、
それを「どうにかして」あげたくてこちら(親)がやってしまうのは・・・
確かにその通りですね。
相手にはそれができない、とハナから決めつけている。
とても失礼なこと、と。 (;_;)確かに
自分を変えられるのは自分だけなのだから、
もっと相手の力をちゃんと信じて、
「どうにもしないで見守る強さ」を持つことが大切、と。
自分に自信のない人ほど、
「黙って見守る」というプレッシャーに耐えられなくて、
つい口出ししたり、アドバイスしようとしたり、
優しいふりして手出しして、助けてしまうのだそう。
わ!でた!出ましたよ! 〇〇なふり!
優しいふり!
ああ、わかるー。 わたし、そうだー (;_;)
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昔はね、
もう寒くない? まだこのままでいいの? とか
家族とはいえ他人のお布団のことまで心配してました。
自分の思うタイミングで入れ替えることで、
結局は自分が安心したいんですね。
朝晩ちょっと寒くなってきたね、という会話があったとしても、
今すぐ布団を替えて欲しいかどうか、とは、
また別の話、なのですね。
「片付けたい」「捨てたい」「痩せたい」と年中言っていても、
本当に本人が本気で行動に移したいと望んでいるかどうか、は、
また別なのと同じように。
相手の力を本当に信じているのなら、
「ああしたら?」「こうしたら?」というアドバイスは、
本当は全て「余計なこと」なのかもしれません。
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「何かをしてあげる」
家事って、全てがそうなりがちだから むずかしい。
やり過ぎればやり過ぎるほど、
相手が自分の頭で考えるチャンスや、
自分の意思でどうにかする力や、
まるで相手の可能性そのものを奪っているような・・・
わたしは散々奪い散らかしてきてしまったような、
ああ、そんな気すらしてきてしまいます (´;Д;`) ウッ
< 気持ちが凹んだため、一旦休憩 >
「解決は相手がするもの」「相手のもの」
このスタンスを決して崩さないことが何よりも大切なのだそう。
アドラーの提唱する「課題の分離」と、これはとても共通していますね。
家族間の、
ごくごく近い関係性の中で、
そこまで「課題」を割り切るのはとても難しいことだけれど、
やってあげすぎてしまって「味を占めさせない」ことが大切です!と。
家族に味を占めさせない、と!?
なんとキビシいことよ!!(泣)
↓ この「端っこ」がとっても美味しかった! 端っこだけ食べていたいほどに!
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ああ、そういう発想はなかったなあ。
やればやるほどいいお母さん、ではないなんて、ね。
家族のために何かやれることが嬉しい、みたいな感情って
おそらくどなたにもあるでしょう?
そんなわたしエラいぞ!
優しいぞ!よくやってるぞ!みたいな、ね。
けれど。
これもまた「人に尽くせばわたしは受け入れてもらえる」とか、
ひいては「尽くしていないと受け入れてもらえない」という不安?
あなたの「自尊感情の低さゆえ」なのですよ、と。
家事をしても、しなくても、わたしには価値がある。
そう思えていない証拠。
ああー 完全に見破られた気がするー (;_;)
できるはずの家事をサボると、
わたしは「罪悪感」すらおぼえます。
つわりの時などは、
脱水症状がひどくて起き上がることもできなくなっているのに、
それでも家事をできないことの罪悪感の方が苦しくて、
わたしは あと少しでノイローゼになりそうでした。
わたしは・・・重症ですよ(笑)
YASUKOさんのところで知った「ミックスベリー」。実が大きくてとっても美味しい!
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「どうにかしてあげたい症候群」を脱するには、
自分のできることの限界をわきまえることが第一歩。
それはすなわち、
相手の「生きる力」を信じる、ということ。
自分の心のあり方は、
自分にしか選べないのだから。
その人がどうありたいか、とか
その人の快適さだって、その人にしかわからない、ということ。
御歳52才。
もはや初老とも呼べる おとーさんが。
今朝の今朝まで「夏のお布団」で大丈夫だった衝撃のように、ね!
(しかも「接触冷感仕様」のやつですよ・笑!)
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ああ、相手を尊重する、って。
寒いだろうから、って思って、
勝手にお布団替えてあげよう、としない
どうにかしようとしないって・・・こういうことか!
去年はできなかったことが、
今年のわたしは、できました。
「どうにかしてあげよう」を手放すのには。
「優しいふり」を手放すのと同じくらい、
わたしには、まだまだ、長く厳しい修行が必要なのかもしれません。
おわり
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「優しい」ことは とても素敵で大切なことだけれど・・・
「優しいふり」なんて・・・ ああ、そんなの、誰も要らないよね (´;Д;`)
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