生まれたばかりや、
まだまだ知らないことだらけの頃は。
「親がしっかりしなくては!」
「親がどうあるかで子の人生は変わってしまう!」
「いい親であらなくては!」
そんな気持ちで無我夢中で。 必死でした。
保護がなければ生きられない年齢までは、
親には、無論 そのくらいの責任がありますね。
親なんて、何にもできない。
そこを知ることこそが子育てなのかな、と。
今は、思うのです。
子のためにわたしが何かできると思って(思い上がって)いるうちというのは、おそらく。
まだまだこちらの、
子ではなく「わたし側」の。
親側の自立が足りていなかった。
ただただ そんな気がするのです。
親は子のために、
死にものぐるいで頑張るんですけれど、
もちろん楽しことや笑顔ばかりではなく
苦しいことや涙もたくさんあるのですけれど、
どんなに大変であろうと、
自分の意思で産んだ以上、
そんなことは「当たり前」のことで。
決して「恩に着せるようなこと」ではなくて。
誰にも肩代わりしてもらえない、
それは「わたし」の課題、なのです。
いいえ。
子の父親と母親である
「わたしたち」 の、課題。
久しぶりの「スープストックトーキョー」。楽しく選べる8スープセット、です ( ´▽`)
子に対して。
あんなことも、こんなことも、
こんなにしてあげた!
なんて思っていた頃のわたしは大馬鹿もので。
親なんて、何もできなかった。
こっちが いつも本当で。 真実で。
いじけるのではなく、
謙虚にそう思えるようになってようやく、
ようやくわたしも少しは「親らしく」なれたのかなあ、と
そんな気がしている、50歳のある日の朝。
「とうもろこしとパプリカのチリビーンズスープ」は、お初!ですよ。楽しみ!
***************************************
こんなにしてあげている!と思っていた頃はね、
子の身に起こった「つらい出来事の話」を聞くのが、
わたしはものすごく苦手だったのです。
耳を塞いで逃げまどいたいくらいに苦手だったのでした。
本人以上に動揺し、
ショックを受け、傷ついてしまうんですね。
一刻も早くなんとかしなければ!と、
わたしが焦ってしまう。
おかしいでしょう?
恥ずかしいです。
でも、本当にそうなのです。
こんな人、いるんかな。
「わたしもそうです!」や、
「かつてそうだったです!」っていう方・・・
読者さまの中にも・・・いてくれるかな (;_;)?
甘いスープは「朝食」に。 すっかり沈没してしまっている緑の物体は・・・
**************************************
「かーちゃんはさ、
もっと肝っ玉母さんにならないとね。」
お子が13歳くらいの頃のことだったでしょうか、
おとーさんからこう言われたことがあります。
本当にその通りで、「正論中の正論」で、
なろうと思ってなれるものならば、
わたしだってなりたかった。
見るに見かねたおとーさんの、心からの助言も。
正論突きつけられ逃げ場を失った当時のわたしには
とても追いつめられたような、
「もっとしっかりしてくれよ」と叱られたように感じて。
わたしだってこれでも精一杯頑張っているのに! と。
たまらなく孤独な、
打ちのめされたような気持ちになりました。
あの頃のわたしは「わたしたち」ではなく。
「わたしだけ」で子育てをしているような気でいましたから。
そしてその時はまだ「親は何でもできる」と。
「母親は絶対的な存在であらねば!」と、そう思っていました。
その傲慢さが、どれだけ子を傷つけてきたかも知らずに。
「助けてほしい」と頼ることもできなかったわたし。
どうして頼れなかったんだろう。
可愛げのかけらもなかったのです。
巨大ブロッコリーです。自宅スープストックならでは。「追いブロッコリー」できる喜び。
***************************************
何にもできないのだ。
親なんて、何もできないのだ。 と気づいてからは。
(気づいた、なんて格好いいものじゃないです。
「突きつけられた」「思い知らされた」という感じでした。)
子の「つらい話」を聞くことが、
わたしは徐々にですが、できるようになりました。
ただ、黙って聴く。
どうにかしようとしない。
むしろ、これこそが、わたしの、
母親にできる唯一のこと、
唯一の「役割」だったのではないか。
そんな境地に至りました。
そこを逃げ回っているうちは、子から信頼されることはない。
そこ逃げ回っていた頃のわたしは、子からだけでなく、
恐らく誰からも信頼などされていなかったことでしょう。
つらい話、どんとこい!!
こう思えるようになれるまでが、
わたしは本当に本当に遅くて、
肝っ玉が小さくて、
子の試練や苦境を黙って信じて見守る度胸がからっきしない、というか
ずっと怖かった。
「堪えがたい恐怖」だったんですね。
耐える度胸、強さ、しなやかさが、なかった。
(できれば嬉しい話だけを聞いていたいという、
とても愚かな母だったのです。)
それすなわち、心が弱かった。
愛が弱かった。
全てを受け止める覚悟がなかった。
子は、それを、必ず見抜きます。
こちらにちゃんとその覚悟が身につくまで、
その課題からは決して卒業できない。
なんども なんども
ひ弱な母(わたし)の魂を鍛えるための、
同じようなことが起こるのです。
しょっぱいスープは「お昼ごはん」に。薄く切ってカリッと焼いたブールを浸しながら。
****************************************
どんと来い! どーんと来いや!!
どんなことだって、受け止める。
だから安心して。
わたしたちで。とーさんと、かーさんで、受け止める。
だから、安心して、あなたらしく お生きなさい。
わたしたち夫婦に、
未熟な親に、
こんな経験をさせてくれて、ありがとう、と。
こんな尊い気持ちをまた一つ教えてくれて、ありがとう、と。
いいことが起こったときだけじゃなくて。
つらいことが起こったときにこそ、そう思えたとき。
これが「親心」なのかなあ、って。
「わたしだけ」では乗り越えられない時は、
「わたしたち」で乗り越える。
これが「夫婦」であることの意味なのかなあ、って。
今さらなから 気づくのです。
家族が何かに挑戦し、立ち向かい、
試練を乗り越えるとき、というのは。
励まし合い、支え合い、信じ合い、
そして人として尊敬し合うことのできる、
かけがえのない瞬間。
もはや「親」も「子」もない、
同じ志(こころざし)を持った・・・
大切で、対等な、そう。 「仲間」だ。
こんな風に届きます。 8種類の幸せ。 ほとんど一人で食べちゃうのよー(笑)
***************************************
人生に起こる試練は、だから。
「つらいこと」や「わるいこと」なのではなくて、
本当は「たからもの」なのですね。
お互いの成長のために必要なことが起こっているのだ、ということ。
必要だから起こったのだ、ということ。
その時にはすぐにはそう思えなくても、
いつかそのことの起こった意味、理由が、
はっきりとわかるときが 必ずおとずれる。
ああ、このためにあの日あの出来事はあってくれたのか!と。
人生って、すごいですね。
そして。
「家族」って 「夫婦」って
「仲間」って
「人間」って・・・ いいですね (;_;)
おわり
家族が、ある試練を乗り越え、
にほんブログ村
きのう、待ちに待ったうれしい知らせがありました。
にほんブログ村
今日、このお話聞いてくださったあなたさま・・・心から ありがとう。
にほんブログ村
いつもポチッとしてくださって、ありがとう ( ´▽`)ノ
読者登録をしてくださっている1098名ものみなさま・・・
更新を待っていてくださるみなさまに、わたしがどんなに励まされていることか。
楽しみに待ってくださるお気持ちを、いつもありがとうございます
: