リュウちゃんの懐メロ人生

2020/09/26(土)16:16

奈良・明日香村彼岸花巡り2020(上)

奈良散策(75)

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​聖徳太子生誕の地「橘寺(たちばなでら)」、今、赤い彼岸花、満開!? 9月21日(敬老の日)、彼岸花を求めて、奈良の彼岸花の名所の一つである明日香村を散策して来ました。 今回はリュウちゃんの単独行です。新型コロナ禍の中、これまで遠くへ出掛ける時には、公共交通を使わず、女房殿の運転する車の助手席に乗って行っていたのですが、今回は約8ヶ月ぶりに公共交通を使って明日香村に出掛けてみたのです。 さすがに法隆寺から明日香村まで歩いては行けない。よし、 禁を破って公共交通で行ってみよう。 ​事前に、今回初めて明日香村の彼岸花の名所を「隅から隅まで歩いて巡る」という野心的な計画を立てました。 ​​以下は「明日香村散策マップ」です。 ​具体的な計画は以下です。 ​(起点)近鉄吉野線「壺阪山」駅~キトラ古墳~文武天皇陵~高松塚古墳~天武・持統陵~欽明天皇陵~亀石~橘寺~石舞台~稲渕地区~石舞台古墳~飛鳥寺~甘樫の丘~天の香久山~藤原宮跡~本薬師寺跡~近鉄「畝傍御陵前」駅(終点) ​​(注)上記の散策計画を上掲の散策マップに当てはめてみますと、​ ★「起点」の近鉄「壺阪山」駅はマップ左下の図の外側にあります。「壺阪山」駅から図の左下にある「キトラ古墳」までは徒歩1キロくらいです。 ​★明日香村の彼岸花の一番の名所であり、「棚田100選」にも選出されている「稲渕地区」はマップ右下部の「マラ石」のある道を下がった図の外側にあります。​ ​★「天の香久山」は、マップ右上の「国立奈良文化財研究所」の裏手にあります。「国立奈良文化財研究所」は明日香村ではなく、「藤原宮跡」、「本薬師寺跡」(マップには掲載されていませんが、中央最上部にある「藤原宮跡」の左側にあります)と共に、橿原市にあるのです。 ​う~ん、かなり欲張り過ぎた計画だ。本当に計画通りに 歩いて行けるかな? ​例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時、法隆寺を出発、午前9時40分、散策の起点となる近鉄吉野線「壺阪山駅」到着、 ​​​<キトラ古墳エリア>​ ​午前10時、キトラ古墳エリアに到着、 以前からキトラ古墳の周辺には、彼岸花は咲いていなかったのですが、キトラ古墳の手前の道の横に、2輪の彼岸花を発見しました。 ​​ささやかな彼岸花だ。​​ ​キトラ古墳の周辺は、 「国営飛鳥歴史公園・キトラ古墳周辺地区」として整備されています。​ ​上の写真の(画面を外れた)右前方の小道脇の斜面に、リュウちゃんお目当ての「キトラ古墳エリアの彼岸花の名所」があった筈なのですが、​ アチャ~、以前あった彼岸花の群生 は消えている残念! ​​以下の写真は4年前に、ほぼ同じ地点で撮った彼岸花の群生です。 僅か4年で、この様変わり、 ちょっと残念です。 ​​しかし、この斜面付近を散策しましたところ、ささやかではありますが、若干の彼岸花を観ることが出来ました。 今回初めて気が付いたのですが、上記写真の道の向こう側の稲田に、少しまとまって彼岸花が咲いていました。 まだ半分は「蕾膨らむ」だ、全体的には「3分咲き」 くらいかな? 満開の彼岸花に、アゲハチョウがとまっていました。 動くものの撮影が 大の苦手のリュウちゃん、こんな写真を撮ったのは 本当に久しぶりなのだ! ​​<高松塚エリア>​​ ​キトラ古墳エリアから舗装された道路を30分くらい歩きますと、右手に「文武天皇(もんむてんのう)陵」が見えてきました。 ​<文武天皇について~歴代天皇辞典の記述>​ ​文武天皇は、名を軽皇子といい、草壁皇子の第二子。​軽皇子は七歳で父草壁皇子を失ったが、祖母の持統天皇に寵愛されて育った。697年立太子、同年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。権臣藤原不比等の娘宮子を夫人として首親王(聖武天皇)をもうけた。文武朝の701年「大宝律令」が完成して翌年から施行された。文武朝では「飛鳥浄御原律令」をまもらせ、また、田租・雑徭などの半分を3年間に渡り免除するなど、持統太上天皇や藤原不比等の支えを受けて善政をひいた。707年25歳の若さで崩御した(死因に関する記述はどこにも無い) ​文武天皇陵の裏手に「高松塚古墳」があります。​ 高松塚古墳の下部の小道沿いに「白い彼岸花」の咲いている一角があるのですが、本日は以下の写真で撮ったものしか咲いていませんでした。 参考のために、2018年に撮った同じ場所の白い彼岸花の写真を貼り付けます。 ​​<天武・持統陵>​​ ​高松塚古墳を過ぎますと、前方に「天武・持統陵」が見えてきます。​ ​本日はこの辺りにも彼岸花を観ることは出来ませんでしたが、陵の麓の畑にキバナコスモスが咲いていましたので、コラボ写真を撮りました。​ ​(「天武・持統陵」について~公益法人・古都飛鳥保存財団の記述)​ ​​天武天皇は、兄である天智天皇の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し進めた。壬申の乱に勝利し皇位に就いたが、686年(朱鳥1)9月、病により崩御した。持統天皇は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である。天武天皇とともに中央集権国家の確立に尽力した。天武帝亡き後即位し藤原京の造営を行っている。檜隈大内陵と呼ばれたこの天武・持統陵は、藤原宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられている。天武帝のために築かれたが、後に702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されることとなる。1235(文暦2)年に盗掘された際の実検記である『阿不幾及山陵記』に記された記事と、『日本書紀』『続日本紀』などの記述が一致したため、天武・持統合葬陵であることが確定した。​​ 「天武・持統陵」の裏手にある民家の畑にも、白い彼岸花の咲いているスポットがあるのですが、本日は彼岸花は全く見られず、コスモスとタマスダレが咲いていました。 タマスダレはヒガンバナ科の球根草、白い彼岸花の代わりなのかな? ​​<欽明天皇陵>​​ 「天武・持統陵」から徒歩10分の所に「欽明天皇陵」があります。この周辺も明日香村の彼岸花の名所の一つです。 ​​はたして、 彼岸花は咲いているのか? ​​​下の写真は、途中にある明日香村の謎の石造物の一つ、「鬼の雪隠(トイレ)」です。​ 欽明天皇陵が見えて来ました。 欽明天皇陵の横手の稲田の畔に、彼岸花の群生がある筈ですが、、、 ありました!でも、まだ半分「蕾」だ! で、欽明天皇陵と彼岸花のコラボ写真は以下のようになりました。 ここの彼岸花もまだ3分咲き、コラボ写真も少し寂しい。 欽明天皇陵を後にしたのが正午ジャスト、当初の計画では正午に石舞台古墳に到着し、昼食を摂る予定だったのですが、、、計画より既に1時間ほど遅れてしまったのです。 石舞台古墳に向かう遊歩道の途中に、見事な彼岸花が咲いていました。 ​​<亀石>​​ 明日香村の謎の石造物の内、もっとも有名な「亀石」です。いつもなら「亀石」の下にも数本の彼岸花が咲いているのですが、今回は芽も出ていませんでした。 やはり今年の彼岸花の開花は、大幅に遅れている! ​​<橘寺(たちばなでら)>​​ 「亀石」を通り過ぎますと、右手前方に橘寺が見えて来ます。 ​<橘寺について~奈良県観光公式サイトより抜粋>​ ​​創建年代不詳、文献に初めて登場するのは天武9年(680年)、聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つ、8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で、四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子堂)など、僅かな諸堂を残すのみとなっている。室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)をはじめ、善悪2つの顔が刻まれた「二面石」などがある。​​ 橘寺の下の稲田は、明日香村屈指の彼岸花の名所なのですが、 ​満開なのかな? ​と疑問を抱きながら、橘寺の下の遊歩道に向かいましたところ、 おお、ここの彼岸花はほぼ満開だ!来て良かった! もう午後1時前、足が疲れて来た。 下の写真は、橘寺から石舞台に向かう途中で観た彼岸花です。 美しい彼岸花を観て、ちょっと元気回復。 ​​<石舞台古墳>​​ 午後1時10分、石舞台古墳に到着、 ありゃ?やはり石舞台の周辺には彼岸花は全く咲いていない!残念! 5年前には、石舞台の周辺には白い彼岸花がいっぱい咲いていたのですが、何故か最近は彼岸花が見られなくなってしまいました。なので本ブログには、5年前に撮った白い彼岸花の写真を貼り付けます。 石舞台古墳の白い彼岸花、是非、再生して欲しい! ​​お腹が空いた!​​ で、いつものように、石舞台古墳を見下ろす丘の上の木陰で遅い昼食、 プファ~、ビールが旨い!初秋の微風が心地よい! 丘の上の土手の草むらの中に白い彼岸花を発見! この白い彼岸花、石舞台の彼岸花の 生き残りなのかな? ​(以下、「奈良・明日香村彼岸花巡り2020(下)」に続きます)​  ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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