ドン・愚利公の連れづれ草

2008/10/07(火)21:34

加地訓で読む4度目の論語1:学而第一-1子曰、學而時習之

加地訓で読む4度目の論語(141)

論語は既に3度拾い読みをしている。自分でも理解できる範囲を慫慂したのである。 続いて、わが国の儒学者佐藤一斎の言誌四録、中庸を拾い読み。中庸はやや手におえなかった。 しかし、いまさらながら論語が素晴らしいと思う。詩を読むように読めるのがいい。 まだ手をつけていない文章をと思って読み始めたがこれが難しい。宗教的に過ぎるとかである。 そこで、これまで読んだ所を読み返しながら、これぞという文章を復誦?してみようと思う。 テキストはやはり講談社学術文庫、加地伸行全訳注「論語」 訳については、できるだけ自分流に考えてみようと思う。 子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎 子曰く、学びて時(つね)にこれを習う、亦説(よろこ)ばしからずや。 朋、遠方より来たる有り、亦楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず。亦君子ならずや。 先生がいわれた、学んで常に復習をする。そうすることで学問は身につく。よろこばしい ことではないか。 突然、遠来の友人が私を忘れずに訪ねてきてくれる。これまた、嬉しく楽しいことではないか。 世間が私の能力を知ってくれなくても怒らない。これが君子というものではないかな。 論語の初っ端に出てくる著名な文章であり、中学校くらいでは教えているのではないかな。 「時に」を「つね」にと読む方がいいのか「とき」にと読むのがいいのか意見が分かれる? 常に復習をしたほうがいいに決まっているが凡人には時にしかやれない。 「亦」によって全体が君子の生活態度を示しているとすれば「つねに」と読むべきなのだろう。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る