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2018.05.24
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」
(「ありのままに3度めの人生を生きる」西城秀樹著(廣済堂出版))

 
 これは、昭和のトップアイドル・西城秀樹さんが、二度目の脳梗塞(のうこうそく)を発症した2011年の翌年に出版した本に書かれた言葉です。


 2018(平成30)年5月16日に、昭和のトップアイドルの一人で、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、「新御三家(しんごさんけ)」と言われた西城秀樹(さいじょう・ひでき)さんが、心不全のため63歳で亡くなられました。

 今回は、1970年代から1980年代にかけて、トップアイドル・スターとして活躍した西城秀樹さんを偲びます。


 西城秀樹さんは、本名を「木本龍雄(きもとたつお)」さんといい、広島県広島市で1955(昭和30)年4月13日に生まれました。

 実家は広島駅の近くにあり、かなり裕福であったと言われています。(パチンコ屋を経営していたという噂もあります。)

 西城秀樹さんには、お兄さんとお姉さんがいて、小学校の時からドラムを叩き、お兄さんたちとエレキバンドを結成していまいた。
 さらに、中学校時代には、アメリカ軍の岩国基地のライブハウスへも出演していました。

 西城さんは中学を卒業すると、「山陽高等学校」(広島県広島市西区)に進学しました。
 そして、高校に入って、西城秀樹さんがジャズ喫茶でバンド演奏していた時に、東京の芸能事務所にスカウトされました。

 秀樹さんは、父親など家族の反対を押し切って、家出同然で上京し、いしだあゆみさんなどが所属していた芸能事務所「芸映」(東京都港区赤坂=当時)に入りました。


<写真 西城秀樹さんの死去を報じる中国新聞の号外>





 1972(昭和47)年3月に、西城秀樹さんは16歳でビクタ-から「恋する季節」でデビューしました。
 キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」(デビューの翌月に17歳になりました)でした。
 ちなみに、「西城秀樹」という芸名は、「女学生のとも」という雑誌の公募で決まったそうです。


 翌1973年6月に発売された「情熱の嵐」が、オリコン週間チャートで初めてベストテン(6位)に入り、25万枚を売りあげました。
 この曲では、「君が望むなら♪」と西城さんが歌うと、会場からファンが「ヒデキ!」と掛け声をかける「コール&レスポンス」が話題となりました。

 さらに同じ1973年に、「ちびれた愛♪」と「愛の十字架♪」が連続でオリコン1位となり、西城秀樹さんはスターの仲間入りをし、日本レコード大賞の歌唱賞も受賞しました。

 このころ西城秀樹さん(1955年生まれ)、野口五郎さん(1956年生まれ)、郷ひろみさん(1955年生まれ)の三人は、新御三家(しんごさんけ)と呼ばれるようになりました。

 1973年11月からは、「ヒデキ!感激」で有名な「ハウスバーモンドカレー」のCMが始まりました。
 ちなみに、自分の頬をたたいてVサインをする「ヒデキ!感激」のシーンは、赤ちゃんが偶然、頬をたたいたことから、考えられたそうです。


 1974(昭和49)年になると、西城秀樹さんの人気は、ますます高まります。

 まず、1974年1月からTBSの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」に出演します。
 平均視聴率が31%を超えたこのドラマの中で、西城さんは主役の小林亜星さんとのけんかシーンを本気で演じ、左腕を骨折して入院しました。

 1974年2月発売の「薔薇の鎖♪」で秀樹さんは、スタンドマイクのパフォーマンスを日本の歌手で初めて披露しました。
 また、5月発売のレコード「激しい恋♪」は、58万枚を超える大ヒットとなり、7月には、初主演映画「愛と誠」も公開されました。

 さらに8月には、日本人のソロ歌手で初めて、「ドームコンサート」を大阪球場で行いました。(この年から10年連続で大阪球場で開催し、1978年からは6年連続で後楽園球場(東京ドームの前身)で開催しました。)

 大阪球場での初コンサートの前日、西城秀樹さん自身がラジオで「懐中電灯をもってきて」と呼びかけ、ファンがそれに応えて一斉に振ったのが、日本で初めて「コンサートでペンライトを使う」パフォーマンスだったと言われています。

 1974年8月には、西城さんの代表曲の1つとなる「傷だらけのローラ」♪が発売され、この曲で秀樹さんは「NHK紅白歌合戦」に初出場しました。
 以降、西城秀樹さんは、1984(昭和59)年まで11年連続で紅白に出場します。


 1975年には「全国縦断コンサートツアー」を開催し、日本人歌手で初めて「武道館ソロコンサート」を開催しました。(以後、11年連続開催)

 また、当時の人気のバロメーターだった「プロマイド(タレントのコレクション用写真→今の生写真のルーツ?)」の売り上げが1位になり、トップ・アイドルに上りつめました。
 プロマイドの売り上げ年間1位は、この後、全部で4回も記録しました。


 1976(昭和51)年からは、阿久悠さん作詞の歌も歌うようになりました。

 さらに、1979(昭和54)年には、アメリカの6人組グループ「ヴィレッジ・ピープル」が歌う「Y.M.C.A.」♪を、西城秀樹さん自身が交渉して、カバーすることに成功しました。

 ヴィレッジ・ピープルは、実は同性愛者(ゲイ)であり、日本の関係者は反対しましたが、西城秀樹さんはどうしてもこの曲を歌いたくて、「YOUNG MAN」♪ という「若者への応援歌」にリニューアルして発売しました。

 この曲は大ヒットし、西城秀樹さんの曲でも最大の80万枚を売り上げ、伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS)で、最高点の「9999点」を出しました。
 また、1979年の賞レースでも、「YOUNG MAN 」は、日本歌謡大賞を受賞しました。


 ではここで、西城秀樹さんの代表曲「YOUNG MAN 」の歌詞を紹介します。


♪「YOUNG MAN 」(作詞:BELOLO HENRI  作曲:MORALI JACQUES  歌:西城秀樹)♪


ヤングマン さあ立ち上がれよ
ヤングマン 今 翔び出そうぜ
ヤングマン もう悩む事は ないんだから
ヤングマン ほら見えるだろう
ヤングマン 君の行く先に
ヤングマン 楽しめる事が あるんだから

すばらしい
Y.M.C.A.
Y.M.C.A.
ゆうつなど 吹き飛ばして
君も元気出せよ
そうさ
Y.M.C.A. 
Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ

ヤングマン 聞こえているかい
ヤングマン 俺の言うことが
ヤングマン プライドを捨てて すぐに行こうぜ
ヤングマン 夢があるならば
ヤングマン とまどうことなど
ヤングマン ないはずじゃないか オレと行こう♪



<写真 「YOUNG MAN」のレコードジャケット>






 1981年発売の「セクシーガール」♪で、西城秀樹さんのシングル総売り上げは1000万枚を超えました。
 その後も「ヤングマン」♪を中心に、西城秀樹さんの歌は、広く長く歌われました。


 ただし、アイドル歌手・西城秀樹さんのピークは、1970年代から1980年代の中頃までだと思います。
 しかし、人間・西城秀樹さんの真価が発揮されたのは、このあとでした。


 西城秀樹さんは、1994(平成6)年に10年ぶりに「ヤングマン」でNHK紅白歌合戦に復帰出場し、阪神大震災の起こった1995(平成7)年にも秀樹さんは紅白に出場し、「震災復興の応援歌」として「ヤングマン」を歌いました。

 また、1991(平成3)年には、西城秀樹さんの大ファンで、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者さくらももこさんが作詞した「走れ正直者」♪を、「ちびまる子ちゃん」のエンデングテーマとして、秀樹さんが歌いました。

 因みに、アニメ「ちびまる子ちゃん」の中では、まるちゃんのおねちゃんが西城秀樹の大ファンという設定ですが、おねちゃん役の声優・水谷優子さんは「神様って本当にいるんだね。」というセリフを最後に、2016年5月17日に、乳癌のため亡くなりました。

 それから2年後の2018年5月16日、1日違いで西城秀樹さんが亡くなられたのは、不思議な縁を感じますね。


 2001(平成13)年6月30日、西城秀樹さんは46歳で、大阪在住だった17歳年下の美紀さんと結婚しました、
 二人の間には、2002年生まれの長女、2003年生まれの長男、2004年生まれの次男の3人の子供が誕生します。


 家族ができて幸せの絶頂だった2003年6月、48歳の西城秀樹さんを病魔が襲います。
 韓国の済州島で脳梗塞(のうこうそく)を発症しました。

 ヘビースモーカー(1日4箱)で、ワインを1日2本も飲んでいた西城秀樹さんは、急激なダイエットやサウナへ水を飲まずに入るなど、体によくないことを繰り返した時に、脳梗塞になりました。

 ただし、倒れたのではなく、異変に自分で気づき、韓国でのディナーショーをやったあと帰国して、この時は一ヶ月ほど入院しました。
 秀樹さんの体には麻痺が残り、特に歌手として致命的な「構音障害」という声が出にくい状態になりました。

「もう、自分の人生は終わった。死んだも同然だ、引退しよう。」

 そう決心した西条秀樹さんに、奥さんの美紀さんは、
「長い間のツケがたまって病気になったのだから、ゆっくり時間をかけて一緒に治していきましょう。」と言ってくれました。

 この時、長女はまだ1歳に満たない赤ちゃんで、長男は奥さんのおなかの中にいました。
 そんな暖かい家族の中で、西条秀樹さんは、病気と闘う決意を固め、毎日のリハビリを始めました。
 病状は少しずつ改善し、やがてコンサートを開くようになりました。


 しかし、56歳になった2011年、西城秀樹さんは2度目の脳梗塞を発症し、下半身麻痺の症状も出ます。
 「傷だらけのローラ」ならぬ「傷だらけのヒデキ」は、それでもあきらめずリハビリを再開します。

 西城秀樹さんの言葉です。

「脳梗塞(のうこうそく)が再発してから、いまも右手と右足に痺れがあって、リハビリは欠かせない日課です。
 リハビリは、朝食後、9時ごろに家から近所の公園へ。休憩を入れながら約1時間半かけて歩きます。終わると、家に帰って柔軟体操と右手でグー・パーを400回。
 あと、発音がちょっとスムーズでないので約15分、音読をします。
 音読もすごいリハビリになるので。松下幸之助さんや昔の偉人たちの名言を読んでいます。」
 
 西城秀樹さんは、そんな不自由な自分を隠さず、ありのままの自分を見せて、それでも一生歌手、一生アイドルであり続けると決意しました。


 余談ですが、実は私も、去年、「軽い脳梗塞」だと診断され、リハビリを数カ月しました。
 その時、リハビリを手伝ってくれる作業療養士からさん言われたのは、
「あの西城秀樹さんも、10年以上、毎日、リハビリにがんばっておられるのですよ。」
という話でした。
 今までできていたことができなくなっている状態で、単調で根気と努力のいるリハビリを、あの大スター「西城秀樹」さんもやっているというのは、私にもすごく励みになりました。

 西条秀樹さんは、脳梗塞などのリハビリ患者のお手本、希望の星、文字通り「トップスター」だったのです。

 それほど、がんばっていた西城秀樹さんが、脳梗塞から発祥しやすい「心不全」で亡くなったニュースは、私も含め多くの患者さんにとっては、大ショックだと思います。


 それでも、西城秀樹さんが二度の脳梗塞に真摯に向き合い、リハビリを続けたことや、「3度めの人生をありのままに生きる」と決意し、冒頭に紹介した次の言葉を語り、そのとおりに生きたことをファンも同じ病気の患者も忘れないと思います。

「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」



<写真 西城秀樹さんのシングル「若き獅子たち」のレコードジャケット(1976年)>








 おしまいは、「西城秀樹さん」のいい話を2つ紹介します。

 1つめは、1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を発売した時の話です。

 当初、あまり売れないと思っていたこの曲が大ヒットし、生産が追い付かなかった時、西城秀樹さんは、レコードを急遽、増産することになった神奈川県のビクターの工場を訪れました。
 そして、「みなさんに残業させることになりますが、よろしくお願いします。」と頭を下げ、みかん箱にあがり、「YOUNG MAN 」を熱唱したそうです。
 秀樹さんの人柄が、よくわかる話ですね。


 もう一つは、西城秀樹さんがテレビや舞台だけではなく、アイドル仲間にも愛されていたという話です。

 西城さんや郷ひろみさん、野口五郎さんが「新御三家」と呼ばれていたのに対し、西城さんより学年で3つ下の女性アイドル3人(森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さん)は、「花の中三トリオ」と呼ばれて人気を博していました。
   
 中でも、山口百恵(1959年1月17日生)さんは、絶頂で引退し芸能界に復帰しなかった「伝説的アイドル」として、今も絶大な人気があります。

 この山口百恵さんから、西城秀樹さんは、若いころラブレターをもらったそうです。
「その頃は、あまり女の子に興味がなかったから、つきあわなかった」そうです。

 硬派の秀樹さんと、誠実に生き、今も芸能界への復帰をしない山口百恵さん、二人のビッグカップルが
実現していたら、それはすごいことだったでしょうね。

 アイドル仲間にも愛された、若き西城秀樹さんの、ステキな話ですね。



 最後は、西城秀樹さんの生き方そのもののようなヒデキの名曲「若き獅子たち♪」を紹介します。

 この曲は、1976(昭和51)年9月5日、西城秀樹さんが21歳の時に発売された曲で、作詞はあの阿久悠(あくゆう)さんです。



♪「若き獅子たち」(作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:西城秀樹)♪


太陽に向かい 歩いてる限り
影を踏むことはない そう信じて生きている
あなたにもそれを わからせたいけど
今は何にも告げず ただほほえみ のこすだけ

甘いくちづけだけに おぼれそうな今
ぼくはふりきって さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よかくすな 獅子のたて髪を
若さを誇らしさを思う時に


太陽が昇り 落ちて行くまでの
ほんの短い間 何をしたらいいのだろう
愛だけに生きて ほしいのとすがる
黒い瞳のあなた もう何も言わないで

熱い抱擁だけに 時を忘れそう
ぼくは目を上げて さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よ隠すな 獅子のたて髪を
若さを誇らしく 思う時に

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば♪



2018年4月25日、人生最後のリハビリを
一生懸命に行った西城秀樹さんは、
その夜、自宅で家族と談笑中に倒れました。

その後、3週間、西城秀樹さんの意識は戻らず
2018年5月16日午後11時53分
急性心不全のため、
神奈川県横浜市内の病院で永眠されました。

しかし、
西城秀樹さんの
アイドルとしてのかっこいい生きざまも
歌手として最後までステージに上がり続けた情熱も
脳梗塞と戦いながら、1日も休まずにリハビリを続けた誠実さも、
ファンやみんなの心から、消えることはないと思います。

太陽に向かい、影を踏まずに
最後までまっすぐに歩き続けた西城秀樹さん。

本当の昭和のトップアイドルであり、
平成の希望の星(ビッグスター)でした。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとう ヒデキ!


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Last updated  2018.05.26 07:58:43
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