長宗我部家の娘たち
長宗我部元親の晩年の愚行の一つに、戦死した嫡男・信親の娘を、信親の替わりに跡継ぎにした四男の盛親に嫁がせたことがあります。つまり、叔姪婚です。信親の孫を、長宗我部の次の跡取りにしたかったのでしょうが、長宗我部の娘を、外に出したくなかったのでは?という気が私はしています。というのは、元親の妹と娘に、なかなか凄い人がいるのです。まず、妹の養甫尼。徳川幕府にも献上された特産品である土佐七色紙の貢献者です。養甫尼について、高知新聞社発行の『続・続 南風対談』(昭和61年発行)に興味深いインタビューがあります。養甫尼とともに土佐和紙の始祖とされる安芸三郎左衛門家友の子孫である日建設計会長も務めた安芸元清氏が、高知新聞社の山田一郎氏から取材を受けたものです。(以下 引用)安芸 長宗我部元親は高岡郡波川の城主、波川玄蕃清宗を攻めて自害させるが、玄蕃の妻は元親の妹だった。妹婿を滅ぼしたわけだ。玄蕃の妻は伊野の奥の成山にこもる。尼になって養甫尼という。女の子が一人いたが、そこで亡くなったそうです。元親が岡豊へ帰って来いとぃぅが、帰らない。大したおばさんですよ。(笑い) 一方、国虎の妻は中村の一条家から嫁いでいたが、落城前に家老の黒岩越前が中村に送り届けている。戦国武将の夫人は夫と運命をともにするものと、そうでないものとある。国虎はいい亭主じゃなかったのかな。(笑い)柴田勝家とお市の方のようにはいかなかった。国虎の長男千寿丸と二男三郎左衛門はともに阿波に落ちのびるが、千寿丸は長宗我部に討たれて死んだ。(注=寺石正路『土佐偉人伝』には阿波三好家の家臣矢野家に入り、矢野又六郎と称すとある)。弟の三郎左衛門家友は養甫尼をたより、ひそかに土佐へ帰り成山に住んだ。養甫尼とは血のつながりがあったらしい。養甫尼と家友は伊予の旅人新之丞(注=彦兵衛ともいう)から七色の紙の製法を伝授されたといわれている。山田 その新之丞の技術が他国へ伝わることを恐れて、成山の仏ガ峠で殺したと伝えられているんですね。史実か、伝説か疑わしいんですが、横川末吉さんは『伊野町史』に伝説と考えてよいと書いていますね。安芸 この六月に成山へ里帰りした時、仏ガ峠の新之丞の石碑を見てきました。碑の裏面には「伝説ニ云フ新之丞君ハ・・・・・・・」と刻まれている。「斬殺」は伝説と解釈したいですね。山田 家友は山内一豊に招かれて七色紙を献上し、以来、安芸家は土佐藩の御用紙方役を勤める(引用終わり)長宗我部元親の娘・阿古姫(長宗我部氏家臣・佐竹親直に嫁ぎ男子二人を産む)については、ウィキペディア(ウィキペディア)から引用します。(以下、引用)慶長20年(1615年)の大坂の陣の際に豊臣方についた長宗我部盛親や夫に随って大坂城へ入るが、豊臣方は敗れて親直は討死し、阿古姫も大坂城が陥落した時に息子二人と共に仙台藩主・伊達政宗の兵に捕えられた。しかし、阿古姫と息子たちは政宗の判断により助命され、阿古姫は伊達家の侍女として召抱えられ、中将と称した。阿古姫は教養豊かで弁が立ったため政宗から信頼され、晩年まで近侍を務めている。息子二人も小姓として取り立てられ、二男の輪丸(賀江忠次郎)はのちに重臣・四保柴田氏を継いで柴田朝意と名乗った。朝意は奉行職(他藩の家老に相当)を務め、寛文11年(1671年)の伊達騒動の際に、酒井忠清邸で原田宗輔と斬り合って死亡した。(引用終わり)他ならぬ伊達政宗に気に入られるなんて、なかなかのハチキンぶりです。伊達政宗としては、佐竹氏に意趣返しの意味もあったのかもしれません。というのは、土佐佐竹氏は秋田佐竹氏の分流と伝えていますが、政宗の叔母・阿南姫が頼ったのが、秋田佐竹氏だったのです。阿南姫は、実家を継いだ甥・政宗によって、嫁ぎ先の家の城を落とされています。伊達家は、阿南姫の実母が住む城に迎えて厚く遇しますが、阿南姫は嫌がり、最終的に、秋田に転封となった佐竹氏を頼ります。阿南姫と阿古姫。名前も似ていますね。長宗我部元親の父方の叔母についての詳細は分かりませんが、嫁ぎ先の吉田氏は、優秀な人物が多い家でした。従兄弟にあたる吉田次郎左衛門貞重は、戦で槍で目を突かれながらも相手の首を取るような人物で、囲碁の名手であり、天文学にも通じていたと伝わります。もし、私の身近に居たなら、頼りにしながらも、強いコンプレックスを持ったことでしょう。「あの家は、どうも、娘の方に、えいのが生まれるにかあらん」。長宗我部家に対し、そんな風に感じた人たちが居たとしても、おかしくないような気がします。