私が坊主になった理由(3)答えはすぐそこにある。
にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村小説ランキング© 父の起こした大罪が故の「てんやわんや」の後、私たちの一家にも暫く静かな時間は訪れた。 その後、職をようやくタクシー会社に定めた父は、運転手として数年の間働いて、今度は母とも相談の上で、祖母から譲り受けた母方の里に近い宅地に家を建て、そこに引っ越すのだと決めた。 その土地は何せ田舎の事、林や森と水田、それに僅かのブドウ畑ぐらいしか無いとんでもない農村である。今までに幾度かは帰省で訪ねた事はあったが、その土地を私は良く知らない。 両親は叔母から「止めなさいよ。あんな所へ引っ越したって碌な学校も無いのよ。塾だって、剣道さえ習えなくなっちゃうのよ。子供が気の毒でしょう。第一大人になってから、就職するにも、ろくに就職先だって無いのに・・」と、相当強い引き止めにもあっていたと言う。 全くその通りで、あすこにいたとしたら今、私は勤め先にも苦労していたはずである。 本当にそこには、企業らしい企業が皆無と言っても、決して過言では無い土地だったのだ。まだ子供の私には分からなかったが、ずっとあの土地に住まなければならなかったら、農家でも無い限り、どうにも出来ない。勤めようにも企業と言う企業が無いのだ。「今あの家があったとして、あなたどうする?あんな所に住めないでしょう?別荘にでもしたいのなら別だけど・・」「そうだよねえ。」 私は内心では、全くその通りだと思って聞いていた。叔母が言う様に、あの家が無い方がずっと良かったのは確かで、いずれあの家が負担になって、売り払ってしまうと言ったところがオチだっただろう。「呪われていたのよ、あの土地は・・」 叔母が妙な事を口にするが、私は黙って聞いていた。 まったく叔母に、同感だと思いながら・・。 あれは私が15になる歳の正月だった。 正月の休みも明けていた。 その日は父が仕事のために、私の生まれ故郷でもある横浜へと帰る日だ。 我々一家のかつて住んでいた、私にとっては文字通りの故郷であり、ここに書いた通り父が、大失態を巻き起こしたりと、色々な事があった横浜に戻る日なのである。 未だ「おせち料理」が残っていて正月の事、いつもの茶の間では無く、床の間のある座敷で食事と言う事になった。父も会社へと帰る日でその時はすでに背広に着替え、みんなで正月料理の残りでお昼を戴いていた。 やはり「おせち」は幾ら残りでも美味しい。年に一回の「おせち」を戴ける日はこの数日間だけなのだから。 そんな中、私は大き目に切られた魚の煮物へと箸を伸ばした、濃い味に仕上げてあるその煮物は、ご飯に良く合った。もう一箸、その煮物の切り身を取ろうとして力を入れた時だ、パチン!と音がしたと思ったら、私の使っていた箸の片方が折れてしまったのだ。「あっ!折れた!」 正月早々の事、これから横浜まで仕事に向かう父も流石に、縁起が悪いな。と呟いて、座から立って行く。母は、その後に従って玄関まで出て行くのを、私も追う。 父は迎えのタクシーに乗ると、それでその年の正月も御終いだった。「箸が折れて、悪かったねえ」と言う私に母は、何でもないでしょ、と一言言って、まだ中途だったお昼の膳へ向かった。そ の時には別段、この出来事がさほどまでに縁起の悪い事とだったとも思ってはいなかったが・・。 極く些細な出来事に過ぎない、こんな小さな正月明けのハプニングが、その年の事を予見するかの様に、まさしく縁起でもない出来事となってしまうのだ・・。 転変は、その年の春が来る頃から始まって、その翌年には父が死ぬ事になる。 突如としてその悪い報せは届いた。 横浜で業務中に、自動車事故を起こした父は会社にいられなくなり、再び失業者となって帰って来たのである。 帰宅した父は、そのまま家の中へは上がらずに、玄関で立ったまま悄然としている。口を半開きにして気が抜けてしまった様だった。「お帰りなさい」と言う母を見ても父はただ、無言でその場に立っていた。 その日そのあと、何をどうしたかは記憶にない。 とにかく失業してしまった父は、落胆から急激に身体を壊して行くのだ。 以前から肺結核を患い、ようやくその前年にお医者から完治を宣言されて、あのように喜んでいた父は、さまで災難が続く自分の運命を呪う様に、その言動から何もかもが、乱暴になって行った。 そんな事はしなかった父が、歩きタバコでわざとポイ捨てをして見せたり、その仕草からものの言いまで、全てが投げやりになり、その頃には父の身体の中で、その肺結核が再発していたのである。 失業の次に来たのが、自分をあれほど長く苦しめ続けた肺結核だと聞いた父は、心ここにあらざる有様であった。 全てが投げ転げるようにやりになって行く。最早、父の再入院だと言う段になり、母は何とか父を入院させ終えた日から様子が変わった。それはまだ、春の陽もその力を強め、大分暖かになった晩候の事だったのだが、父が二度目の入院をしたその日、母は離婚してこの地から離れる決意をしたのだった。 無論、まだ、母のこの決意を父は何一つ知らない。 電話をしている相手は叔母である。 「いつでも来て良いからね」と、言う叔母の言葉に力を付けた母は、いよいよその決意を固め、とんとんと離婚の手続きがなされた。あっと言う間にそ父母の離婚は決定し、土地と家とを売り払う相手との話合いも、親類や縁者を通して決まった。 事のすべてがスピ―ディーに進んで行くのだった。 天が味方でもしたが如くに、私と母はその土地を離れる事になったのだ。あの、縁起でもない土地を・・。 私も安堵の心と言うものが、こんなにも落ち着くものなのかと、久しく知らなかった安心と言う感覚を身体に取り戻す事が出来た。それまでの間は、何処か困惑気味で、気分も朧ろな日々を送っていたのだ。 離婚・土地と家の売却。入院中の父への挨拶と、全てが済んだ日は、もう他に為すべきは、引っ越しだけなのだと思うと、不思議に安心と言う感覚が蘇って来たのだから、皮肉なものであった。 多くの場合、こんな時には悲しみや、涙が付き物なのだろうが、私には少しもそんな感覚は無い。 早くまた都会へ帰ろう!という思いだけがあったのだ。 多くの場合と違い、このときの私は嬉しさでいっぱいだった。 いよいよ、ここへ来てから二年足らずで、そこから離れると言う日を迎えた。 これでこの家を失うのだ、と言う感覚も、またその先々の事にも、私は全く頭を巡らす事は無かった。 それよりも一刻も早い、この土地とのおさらばをのみ願って、そこを離れた。 この時にも、私は何の悲しみも土地への執着も、全く無いどころか、感じる事はただ、喜びだけであった。 住み慣れると言う感覚は、決して出て来そうにないその土地から、元いた街へと帰れるのだ。 嬉しいと言う以外に、どんな言葉が当てはまるだろうか? その翌年には高校受験が控えていて、いや「いる」からこその、転校。転居だって嬉しい限りでであった。 叔母の家へと引き取られた私は、その翌年高校へ上がる歳にはさて、ここで初めて、自分の将来とか近い未来の事に付いて、ふっと考えはじめる心の暇が出て来た。 自分が父方の親類や、或いは母にからさえも、散々「あんたは、お父さんの子なんだ」とか「血は争えないって言うけれど、本当だねえ!」などと言う、言葉の銃弾を浴びせられたのだ。さあ、あれだけ酷く私の「血」の事を逆手に攻撃を受けるのならば、どうしたものか、とここまで考えた。 そして、答えはすぐに出た。 この血が「穢れ」ているのなら、そして確かに私と言う人間は、父親の汚名と悪業によって「穢れ」ているのだと言うのだから・・、それならば私が、自分でこの血を滅ぼせば良いんだと。 私の代でこの血を引き留めれば良いのだと、案外簡単に答えが出た。 若し私がこの考えを、一言でも言葉にすれば逆に「そんな事はないんだ、穢れてなんかいないんだ」と言おうとする人たちが絶対に出るから、他人には否、身内にもだ、これを決して言うまいと決意したのである。絶やさねば済まぬ「穢れた血」と言う限り何としても私が絶やさねばならぬのだ!きれいごとは通じない。 今も私の基本軸はここにある。この決意だけは、絶対にブレたりはしない。私が坊主になった最大の目的は「穢れた」私の血統を、私自身で滅ぼすためなのである。 私のこの決意さえ揺るがなければ、私は父親の血を、後へと伝える事無く私で止める事が出来るではないか。 これは決して、親類や縁者たちの誰かへ向けた復讐として言うのではない。 坊主は結婚をしないものなのだから、本当にこれで良かったのだと私は思っているのである。 別段これで、私が何んな誤りを犯すわけでなし。寧ろ、私なりの正義を貫いたのだと思う。 この意志を、貫き通す事が出来て、本当に良かったと思うのである。 父の子と言う「穢れた」私と、私のその「血」を伝えないと言う、両方を合理的に解決するには、私が坊主になる事だ、それが一番だろう。 自分の「血」は穢れているのだ。こう散々私に言った人たちに対し、私はこう言う形で答えを出す事が出来たのだ。 坊主になった甲斐があると言うものである。 高校の二年生の年に、取りあえず私は、形だけの出家得度式なるものを受けて坊主への第一歩を踏み出した。 その後、本当に僧侶としての住職資格を得たのはそのまだまだ先で、それから約10年後の事になる。 基本、坊主が結婚する方が、どうかしているのだ。 私は別段、坊主としての「けじめ」を守り、そのけじめのたった一つか二つを、こうして果たせたと言うだけの事である。 この点に関して言えば、考えがおかしいのは真に世間の方で、私は全くこの点について、何人からも、文句を言われる筋合いは無いはずだ。 私が高校入学を前にして、第一に決めた事は、これである。 そこには運命と言う、目に見えない何かと、私に決意させたところの、また別な、「私」と言う存在を越えた大kなる意志の働きのような何かがあったのだろうと思う。ごく常識で考えたら自分の「血」を跡に残さないなどと言う人は、そう滅多にはいないだろうう。それを成し遂げさせてくれたには、必ず「私」を越えたところの何かが働いているはずだ、と私は思う。 重ねて言うが、私に対し暴言を浴びせた親類たちへの恨みや復讐から、自身の血統を絶やそうと言う訳ではない。 私の「血」を、後の世に伝えない事は、坊主の私には自然な事なのである。 だからこそ、私は坊主になったのだ。「穢れた私の血」についても、これで同時に解決を見たと言う事であろう。確かに私は「穢れた父の血」が体内に流れている。それを同時に絶やせると言うのだから、事はこのように至極く簡単な事だったのである。「恨みや復讐に非ず、坊主の自然なり」まさしくこの気持ちだ。 だからと言って私は、逆に他人に対して何かを批判したいとか攻撃したいとか、その様な意図は何も無いので、如何に坊主でもこの問題は各自で判断して良い事なのだと書き添えたい。 この経験で分かった事が幾つかある。が、中でも人は、最も自分に相応しい答えを出す者なのだと言う事だ。それは決して特別な何かを必要とはしない。 同じ事は、素直に考えれば案外誰にも応用の利く、簡単な事なのかも知れない。 誰かを傷つけても、また逆に自分を傷つけても、それは賢明な事とは言えないだろう。 坊主になった私の判断は、結果として誰をも傷つけない、合理的な判断であったと、今は思えるようにもなったのだ。 怒れる炎は鎮めなければならない。良い怒りは使い方次第で、その後の色んな場面でエネルギーにもなり得るが、荒れ狂う怒りは何とかしなければ、大変な結果を読んでしまうだろう。 出家がこの私には、最も良い生き方だったのだと、だからこそ言えるのである。 (了)にほんブログ村