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THE Zuisouroku

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2025/09/22
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カテゴリ:小説
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                     闇夜



 ノックス大佐、いやもはやそれはアメリカ海軍の軍人では無く、どこから見ても静かな威厳に満ち、物に動じぬ聖職者のノックス牧師だ。牧師は他の二人の助手を伴って入室して来る。
 不思議な事に、香炉から立ち上っている煙が、その取り巻いている周囲の闇へと沁み込みながら、それを少しずつ溶かすかの様に、仄かに照らし出していた。
 その香りは、山本五十六の寝かされている寝台の手前で見守る皆のところにも届いている。
 怒れる魔を和らげるが如くに薫って来る、高貴なその香りは皆を一瞬安堵させ、逆に魔をなお一層激しく唸らせていた。

 どっしーん!!と言う、もの凄い地響きが部屋中を震わせている。牧師たちが入ると同時に獅子の如き唸り声も聞こえ始めた。その地響きと唸り声は、この部屋が頑丈な鋼鉄の軍艦の中なのだとは到底思えないほどだ。それは山本の脇に立っている軍人たちの心をさえも、大きく動揺させずには置かぬものであった。

 さしもの海軍軍人らさえも怯えて顔色を失っていた。そこに立っている全員が、震えこそしてはいないがその顔を強張らせている。そしていつもよりその顔が一段、細長くなったように見えていた、彼らの蒼い顔と顔が、その蝋燭の薄明りの中に見えている。
 人間が怯えている時の顔は、暗がりの中で見るとそれ自体がこうして細く、そして長くなったように見えるものなのだ。周囲が暗い、闇の中で顔色を失い蒼白になっているだけに、怯えて変わった顔の輪郭までが、そのように良く見て取れるのである。常には兵ので知られる小沢治三郎や、常に冷静で感情を表に出さない宇垣纒も、そしてあのウイリアム・ハルゼイ提督に海野までもがその場に固まっていた。皆がその背筋に冷たい物が流れ落ちているのを感じている。ノックス大佐とその助手役の牧師たちだけが真に冷静に、かつ落ち着き払って、いま病魔に襲われている山本の寝ている寝台の上手へと回り、小沢や海野たちと向かい合わせになった。

 三人の牧師たちは、いよいよその戦いの場に立ったのである。

 暗がりの中で山元五十六を見守っている海野や小沢たちにとって魔が怒り、暴れて唸る闇の中に、牧師たちが着位した事で、その頼もしさにようやく心を強く保つ事が出来た。

 暗闇の中に明かりを灯すべし。汝、心弱き者よ。その光を辿れかし・・。それ、そこは神の守護するところの故なり。

「我、神の名において汝を祓う。穢れし者よ、我いま汝に告げる。その名を告げよ」

 助手の唱和に続く、これが初めのノックスの牧師の宣言であった。いよいよだなと、そこにいる一同の心も定まる。ふたりの助手は寝かされている山本の身体の上から浄水を散き、香の煙を回しかけている。煙は山本の上に満ち、そこを仄かに照らし出していた。香の煙が、この暗がりの中でこんなにも頼りになる導べとなろうとは・・、小沢治三郎や他の居並ぶ軍人たちにも、科学者の海野にも初めての体験である。しかし、それが何故こんなにも周囲を照らし出すのかと、海野だけが科学者の頭に返って、ちらと思った。



「祓い」の式は、ノックス牧師の主導により、清々とかつ淡々と執り行われている。
 やがてノックス牧師がラテン語で、山本と周囲を囲んでいる全員への護句を唱えた。それは恰も、歌うが如く滑らかなリズムとなって、一同の耳に神秘的且つ、雅びやかな歌謡にさえ聞こえている。幽玄とも言える、流れ出るようなその護りの句は、それを聞いている一同の背筋にこれまでの恐れと代わり、新たな感動と驚きによる電流を走らせるに十分だった。
海野の頬を感涙が伝う。皆の頬にも同様の涙が伝わっていた。そこにいる一同全員が、護りの波動に強い感謝と感動とを覚えていた。

 神よ。我らこの暗闇に在り。いま、まさにその御手により、我らに光を遣わし給へ。

「神の名においていま我、汝を祓う。汝悪しき者よ、速やかにこの者より去れ」

 一同の頬を伝う涙は、今や雫となって床へと落ちていた。やがて、その闇の中に一筋の光が差した。一同はいま、神と言うものの存在を感じていた。否、神はいま、まさに皆と共に在った。見えこそすれど本当に、神はその傍に在ったのである。

「汝、穢れし者よ。汝我の言葉を聞け。我、汝を祓う。いま我ら汝を恐れじ。いま我ら、聖なる光の御中に、神と共にあるが故なり。速やかにこの哀れなる羊より離れて地獄へと帰れ」

 ノックス大佐の声が一段強く響いた。と同時にまた、床が抜けるのでは無いかと思われるほどの、強烈な地響きが伝わって来た。「祓いの式」により、悪魔の怒りはいま、この空母を捻り潰さんばかりの勢いでこの空間へと伝えられているのだ。その大きな力で艦のすべてが真っ暗になった。
 機関室では、この悪のもたらす闇に立ち向かうため、全ての機関員が尚忙しく立ち働いている。
「良いかっ!気をしっかり持つんだ!艦長もいま本艦を呪いから救わんと戦っているんだからなっ!敗けてはいかんぞっ!!」
 機関長の激が飛ぶ。機関長自らも、この艦をこの暗闇で、大揺れに揺れているこの艦をなんとか立ち直らせようと踏ん張っていた。
『赤城』の敵は、この闇を支配せんとする悪魔だ。それは嘗て山本が、それと「契約」を結んだ事から始まった。悪魔はいや増すその怒りをこの『赤城』へと叩きつけていた。

 これまでに無い大きな揺れで艦は停電し、艦内電話は使えなくなっていた。
「艦長っ!こちら機関室!機関回復を図る!機関回復させる!」
 艦の大きな動揺で、今にも転びそうになるところを両脚で支えながら機関長は、伝声管の蓋を開いき、こう叫んだ。

 大きな地響きと唸るような獅子吼はいつしか消えて、今度はムソルグスキーの『道化師』が、がなり立てるように響き渡っていた。
 悪魔がノックス牧師たちの祈りをからかい、また逆に彼の勝利を告げるかのように、海に吹き荒れている嵐は、慌ただしくドタバタと旗艦『赤城』に叩き付けていた。それは増々大きさを増した。これまでの魔の雄叫びが、人間どもとの戦いの、ほんの小手調べだったのだ、と告げるが如くに。
 一方、山本の部屋で祷っているノックスは、この暴れる魔の雄叫びを聞きながら、却って落ち着いた。
 これこそ魔が動揺している証だとノックスは、自分たちの祷りが魔に及んでいるのを感じ取っていたのだ。だが決して予断は許され無い。これこそ魔との間の駆け引きなのだ。
 魔はこちらを怖れさせ、また騙し、敗けたようにも振る舞いながら、ありとあらゆる手でこちらの隙に付け込んで来る。それが祷りの声に表れては、こちらの敗けなのである。

 勝ち誇りもせず、恐れをも感じさせてはならない。変わらぬ態度でノックスは静かに祈り、それを悟ったふたりの助手たちも、落ち着いてラテン語の唄を歌い続けていた。

 祓いの式が淡々と続く中で山本は、無意識下から来る、自分の内なる声を聞いていた。それは自分が嘗て、あの晩に悪魔と「契約」を交わした時の思いだった。彼はいま、それを思い返していたのだ。それは、自分が為した事の本当の意味だった。

(今後の事を考えれば、例え魔であれ何であれ、取引するも止むを得ん・・。)

 むしろ、その時の山本には、その「契約」を結ぶと言う事こそが、身を捨てて国と国民に尽くすと言う事なのだと思っていたのだった。
 山本はいま、その時自分の為した「契約」の意味を、悪魔からありありと見せつけられていた。
 魔は山本を苛んで、ノックスたち牧師を脅かす算段を付けているのだ。

「お前は嘘を吐いた。契約を守らずに俺を騙したのはお前だ」
「お前は卑怯者だ。いまさら祷りなど通用すると思うのか?」
「お前の両の脚は俺がもらって行く。俺は序でに、牧師共も地獄へと連れて行くだろう。全て、お前のせいなのだ。お前が招いた事なのだ・・」

 山本の額に汗が浮かんでいる。低くそして弱弱しく、部屋には山本の悲しいうめきが聞こえた。

 (続く)

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Last updated  2025/09/23 06:21:29 AM



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