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2025/09/26
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カテゴリ:小説
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                      炎



 航空甲板上で倒れた神山は、的確な高野井の通報でそのまま担架に乗せられた。この日、幸い航空機の離発着予定がない甲板には、神山の救出に差し支える事が一切無く、彼は迅速に医務室へと運ばれて行った。

「さすがにお疲れが溜まっていらっしゃるのでしょう。神山さんも、長く行方不明になったり痛めつけられたりなさったようだし。顔も以前と比べて明らかに痩せてしまわれた。神山先生のような専門家でもあんなになるのだから、もうこの世界では誰一人安心していられる者とてありますまい。いまはその話もあって伺うところでしたが・・。神山先生が、おなじこの空母におられるのなら私も、もっと早くにそれを知っていれば良かったかもしれませんが」

 医務室まで運ばれて行く神山を、艦長の橘は高野井画伯と二人、航空甲板で見送りながら高野井と並んで立っている。担架での急ぎの搬送なので神山は、甲板から直に階下までエレベータで降りていくのである。
 やがてエレベーターが下がって、神山が担架で運ばれて行くその様子を最後まで認めた二人は、そのまま航空甲板から、斜め右の前に停まっている空母『赤城』を眺めつつ、手擦りに身を任せた。

「私の見た限り、いまあの『赤城』は、こんな状態です。乗員の多くは、おそらく無事ではありますまい。中には山本さんや海野さん、小沢提督たちもご一緒のはずですから尚のこと心配です。むしろ私の直感では、あの山本さんたちのお仲間のうちにこそ、この事象の原因の中心になっている人がいるのでは無いかとさえ感じています、もちろん確証はありませんが」
 
 言いながら高野井は、さっき自分が描いて置いたスケッチの幾枚かを示しながら、それを橘に手渡して再度この、航空甲板から『赤城』の様子を見直した。
『赤城』はまだ揺れていた。それどころか、こんどは炎さえ上げているのが見えている。その、蒼くて透明な炎は、魔の怒りが艦の実体に燃え移ったものである事を、高野井はすぐにその持ち前の勘で知った。その蒼い炎によって『赤城』のほんとうの実体が、口惜し気に焼かれていたのである。

「そこには人影こそ見えねど、中で同じこの炎が焼いているものは、艦体だけでは無いはずだが・・」と、こう言い掛けてから高野井は、さすがにその先を口にするのが憚られ、口を噤んでそのまま沈黙した。
 人が実体としての身を焼かれると言う光景はどう言うものなのか、その様子を想像する事さえ、十分に身の毛もよ立つ事だが、その意味を深く考える事はさらに恐ろしい。要は、人間が生きながらその魂を、焼かれると言う事だ。それを思うと高野井はたえられず、反射的に背筋をびくっ!とさせた。
 高野井は艦長の橘に、この自分の心に映じ掛けている光景だけは悟らせてはいけないと、出来るだけそれを表情に出さぬ様に、押し隠すように海へ視線を向けたまま、凝っと一点を見詰めるようにしてそのまま動かさなかった。
 高野井の視線の先には『赤城』では無く、ただの海が映じている。高野井は深呼吸をして、さっきの身震いを橘に気付かれなかった事をそれとなく確かめたかった。と、言うよりもむしろ、身震いしていた自分の姿を深呼吸で誤魔化せれば良いと言うのがむしろ、そのほんとうの意図であった。
 橘は未だ、画伯のスケッチブックに入念に見入っている。左右に大きく動揺している『赤城』と、その周囲に大きく波立つ海の様子が描かれていた。喩えればそれは、嵐の中で揺さぶられている笹船のように、この大きな空母さえもが今にも転覆するのだと言う、危うく心細い光景だった。
 だがそんな光景はもちろん、ものの実際と言う形骸を見ているだけの眼には見えないものなのだ。
 実際の光景と言うものはこの場合、事象のほんの表面だけ、形骸だけを示しているに過ぎないからだ。

 実際に見えているものと、実体の姿とが、しばしばこのように大きくかけ離れている事を、高野井は幼い時からずっと知っていた。ところが周囲の者にはそれが一向に見えてはおらず、高野井の見ているその「もの」の、ほんとうの姿は、周囲の者たちによって、ただの子供の想像に過ぎないものとされた。
 こんな子供だったから、高野井はその当時から変わった絵画ばかりを描いていた。だが、幸いそれを叱ったり、偏見で見る大人は極く少数だった。周囲にいる大方はそれを、高野井の貴重な才能だとして尊重してくれた。
 そのお陰もあってか、別段誰から言われるまでも無く、彼は自然日本画家への道を歩む事になって行ったのだった。
 今度も高野井の周囲にいる人たちは皆、そんな理解ある人たちと似ていた。

 ユング心理学者の神山が、高野井のそばにいてくれた事もあって、こんどの怪異な事象の世界の訪れとともに、突如始まるこの艦隊の暮らしの中でも高野井は、最初からよく理解され、彼の言う事や描く事は誰からも、日本画家としてのただの想像物としてでなく、高野井が実体として見ている事象の姿なのだと誰の心にもすぐに通じた。高野井はだからこそ、こうして誰に遠慮する事も無く、至極当然にその見ているものを大っぴらに表現し、またそれを言い表す事が出来る。むしろこれまでの日本画家としての審美眼が為せる世界と言うだけでなく、それが高野井の、昔から普通に見えている世界の姿なのだと言える事こそが、高野井の心をこれまでに無く楽なものにしてくてれていた。

 よく確認するように、何度もスケッチを見返していた艦長の橘は、これが『赤城』の現在だとしたら、この先、艦と乗員たちがどうなるのかと言う、極めて現実的な事柄を知りたがっていた。だから高野井には、やがて橘の口から発せられるであろう言葉を、十分容易に察する事が出来た。
 いま、高野井の心象世界で起きている、このようなものが事象の実体ならば、早期に何とか手を打たなければと、橘の心の内はいつになく騒がしかった。
 高野井も知っての通り、あの中には山本や小沢たちも乗っているのだ。

「死者が・・。いや、犠牲者は・・、どれぐらい出るんでしょうねえ?」
「ええ、それについてですが、おそらくすでに、相当の被害が出ているものと思われます。かなりの被害を覚悟しなければ・・」
「この周囲の時空間が、すでに特異な世界に巻き込まれているのだとしたら、直に救助隊を送り込んでも大丈夫でしょうか?それとも?」との、橘の問いに、高野井はすぐ「はい。」と、ひとつ答えてから「無論、神山先生と私もご一緒しましょう。こんな私でも、何かのお役に立てるかもしれませんから」と、強くはっきりした口調で答えた。
 自分が一緒なら、神山にも鬼に金棒なのを、高野井もすでに経験してよく知っていた。二人が力を補い合えば、より多くを確実に救助できるだろうと、彼は確信していた。

「私たちの魂さえ無事なら、生存している人たち全員を救出して来ますよ。そうでなければ・・」
「は、そうでなければとは?い・一体それはどう言う・・?」
「あ、いいえ。今のは言葉の交です、どうかお気になさらず。」

 まさか、人の魂が焼かれる様子なんかを、他人に語れるものでは無い。それこそ、阿鼻叫喚の世界だ・・。でも、私には実際にその記憶が・・。
 若し高野井が、その続きを言えたならこのように言っていただろう。
 高野井には実際、その光景が見えてしまった事があったのだ。人の魂さえもが焼かれてしまうその有様を・・。



 それは肉体では無い。魂の破壊を免れるためにこそ存在する実体の中に、その者をその者として特徴付ける魂はたしかに「あった」が、然し何故かそれが、源の分らぬ強い力によって、無理やりに引き摺り出されて逃げそこない、地べたに押さえつけられているのである。そしてやがて、その魂の頭には、ぼおっ!と、音を立てて蒼い炎が点じられたのだった。
「仮の存在」と言うが、あれは確かにこの世界にみるような肉体では無く、その人が本来持っているところの、滅ぶ事無き実体、やがてそれが転じて成就するはずの魂だった。この光景が見えた時、高野井にもその道理が自然、その持っている勘所で分かった。
 魂は然し、高野井にも見えない大きな力と、その身の実体のうちから尚、逃れ出ようとあがいているのだった。
 この光景から高野井は、そこに実体の世界で働いているより強く、また尚眼に見えぬ何か、が作用しているのだと思い、そしてどんな理由からかは分からぬが、その何者かに、滅びる事の無いとされる魂までが、あのように焼かれてしまうのだ、と言うこの、いま見たばかりのおぞましい出来事に、その身が震えた。
 阿鼻叫喚と言うが、幾ら阿鼻叫喚しようが、魂があるからまだ良い。少なくともそこに魂が存続し、いつかはまた、この世界へと転生できると言う希望は、あるでは無いか。
 だが、あのように、その人の持っている実体のみならず、不滅の魂までが、逆らう事の出来ない何かの作用によって押さえつけられ、火を点ぜられては、そのようにして焼かれた魂は消滅してしまう。これでは、神も仏もあったあものでは無い。
 今や、嫌でも見えてしまったその光景は、高野井の記憶が根付く、その根本の根本にまで焼き付いて離れない。最期の最期に、人が魂を焼かれて尽きて行くその光景の記憶が、常に高野井をして戦慄せしめ、どうしても、自分だけはああなりたくないと、なにかの拍子にその記憶が出るたび、想わせられるのだ。
 悲鳴こそ聞こえはしなかったが、その時、焼かれて果てる魂の目が、彼の破滅しようとする寸前に、こちらを見た。彼の断末魔の苦しい一刹那にある彼の目と高野井の目は、そこでしっかりと出合ったのである。
 その光景の最後には、眼前に広がっている灰色の空間に尚、彼を焼いた蒼い炎が尽きずに燃えながら揺れていた。

 高野井の瞳には、いま遥かに海面が映じているが、同時にその視野の隅には、蒼い炎も揺らめいていた。彼の内面に渦巻いているこんな戦慄の記憶を他所に、現実の出来事への対応のため、橘艦長は高野井の言に従ってこう告げた。

「はい。では、神山海将補の回復を待って、救助隊を編成します。高野井先生にはご協力、感謝いたします」

 その『赤城』ではまさに意識が遠のいてしまった山本五十六を守ろうと、ノックスやその助手の牧師たちが、最後の抵抗を試みていた。

 ノックスは唄い、唱えた。そしてハルゼイと一緒に、尚その場にいる一同の指揮を執った。

「招かれざる者に告げる。招ばれざりし魂よ。永遠に炎で焼かれるのだ」

 汝は主の怒りを被りき。為に汝、神の御業によりてその身を焼かれよ。
 退去せよ、魔物奴が・・。

「我、汝に告げる。即座に退去せよ!」
 強い言葉の後に、ノックス牧師のクロスが山本の心臓に当てられた。

 悪を為す事のみを知る、そこな穢れたる魂よ。その身は焼かれて永遠に再来すべからず。
 援軍来たりてそへ炎を放ち、それなる蒼き者もろともに、直く汝を捨て去らん。

 聖なるその句の響きが、一刹那と言う「時」と「時」の刻みをゆっくりと、そして鮮明に、その暗闇の中に映し出して見せた。
 ラテン語の聖句の中に感じる、神への感謝と生命の時の刻みへの感動とに、いまにも泣き出しそうな一人一人の表情までが、一コマの瞬間ごとに重なって見えた。聖句は尚、続いている。
 そこにガオーオ!っと上から下から、同時に響く獅子吼が襲った。
 それは、自分は全く動じてはいないのだと言う、魔が自己を誇って見せる声だった。
 怖気付いてはいけないと、冷静になる事を覚えた一同は、彼らの唱えている貴き聖句と祈りとで、いままさに山本を守る事にだけ心を注いでいる。彼らの祈りは、こうして初めて悪に対し炎を点じる力を持ち得た。
 一方、魔物は全く弱ってはいなかった。弱って見せこそはしたが実際には、この人間たちをなぶり殺しにするには、まだ早すぎると、その意図はむしろ、残忍な子供がカエルを生け捕りにして、それを殺さずに虐め楽しむのと、同じ事なのであった。

 自分を懲らしめる心算だろうが、こ奴らには致命的な弱さがある、この愚かな人間どもがっ!と、魔物は舌打ちをしている。
 その魔物の思いは、いま、はっきりと音となって聞こえていた。人間に対してする、嘲りの舌打ちだ。

「お前たちは弱過ぎるのだ。嘘吐きは皆弱い、これが道理だろう。そしてお前たちは狡い。それも弱さの証しでしか無いのだ。そして山本よ、お前は俺を、騙した!」

『赤城』の艦内全てに、大きくて強い野獣の唸りが響いて艦体を震わせた。それに続いて嫌らしい舌打ちの、チェッ!!という大きな音が幾度も幾度も、連続し、反復している。

 そのバカにしたような舌打ちの連続音にハルゼイは、覚えず強い怒りを感じた・・。

 (続く)

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Last updated  2025/09/27 09:36:13 AM



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