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カテゴリ:日記代用バトン
1、あなたの最大の敵は?(一番嫌いな種)
→ 器械体操だったと思う 2、体育のこと、何時から嫌いですか? → 忘れた 今回は学校時代の思い出含めた当時の目線・今の目線・「学校の体育」関連と異なる設問回答が混在しております。 3、短距離種目に対して一言(ハードルなども含む) → リオデジャネイロオリンピックの男子400mリレー決勝でデッドヒートを繰り広げたウサイン・ボルト選手とケンブリッジ飛鳥選手が、なぜ数ある陸上競技の中で短距離走を選んだか …なんてことはさておいて、 トラックでは瞬発力が求められる短距離走選手といえども、能力の開発・ひいては人生は、短距離走ではなくマラソンですよ そして"ここぞ"という時には短距離選手の如くエネルギーを注ぎ込む ―このバランスがポイントとはいえなかなか難しいんでしょうが 4、長距離走に対して一言 → 小学校卒業後、引っ越して新しい中学校に入り、そこには年中行事のマラソン大会があった。 ―で、地元の小学校出身のクラスメートに、自分の小学校にはこういうマラソン大会がなかったと言うと羨ましがられたが、 その代わり冬は毎朝「耐寒駆け足」というマラソンの授業(朝礼?)があったことを言うと反応は一転 ただし―案外、短距離走に比べると長距離走は"しんどいのは皆同じだから、多少遅くても恥じる必要はない"という気楽さがあった気がする。 5、球技に対して一言 → 球技に限らずチーム競技やスポーツ行事で、スポーツが得意でない人を足手まとい呼ばわりする人は―まあ、私の周辺だけでなくどこにでもいるだろうが、 それなら自分達で勝手にやっとけ―特に男子、先生もクラス・チームの点数アップのためというなら私がサボる権利をくれ、という類のことを思ったものだった。 小学生の時、昼休みや20分間の長い休憩時間を利用してクラス対抗の「長縄大会」なるものが行われており、 跳んだ数を稼ごうと縄を高速で回すため(一斉に跳ぶ大縄跳びではなく、八の字連続跳び)、小学校低学年の頃は一時は恐怖でなかなか輪に入れず、非難の的にされていた。 仲のいい友達に頼んで後ろにつかせてもらうことで跳べるようになりましたが。 この時のBGMがチェッカーズの「ジュリアに傷心」のインストバージョンだったが(当時は分からなかったが、十代後半になって、仲間がカラオケで歌っている時に分かった) この曲がこの苦い思い出と結びついているのは、学校当局と選曲者が悪い ―とは蛇足でございました。 6、集団行動に対して一言(行進、回れ右など) → 体育における集団行動の典型・代名詞・集大成みたいな運動会は、元をたどると明治時代に、軍隊に入って通用する規律性を養うことを目的に日本の学校教育に導入されたものなんですよね ―大学でそんな話をしていた教授がいましたが。 7、体育(運動)大会に対して一言 → 短距離走と長距離走は筋肉の使い方やエネルギー配分他、求められている要素が違うのだから、よほど身体能力が高い人でなければ"何でもできるマルチプレイヤー"になることを求めるのは無茶な話ではないかと。色々な事を体験させてみることは必要としても ―という点では、(自分の体験だけに基づいて言うと)中学時代以降のように、全競技を選手制にするほうが、適材適所という点で合理的 高校時代、エンタテイメント競技でハチャメチャリレーがあり、3年ではそちらに出た。他は人数合わせでスウェーデンリレーに出させられた 8、持久走大会に対して一言 → ひろさちや(宗教評論家)の著書に、ある高校の運動会のマラソンで生徒達が申し合わせて走らずにゾロゾロ歩き、"学校や地元では問題にしていたものの、この生徒達が競争のくだらなさに気付いているとは素晴らしい"と称賛していたのがあった ―のが頭に浮かんだ。 9、体育教師に対して一言 → ・私の学校には幸いにもそういう体育教師はいなかったが、暴力教師・女子生徒にセクハラまがいのことをしている奴はおるまいな ―と下書きに打っているそばからそういう不祥事を起こした教師(体育だけでなく)が後を絶ちませんが ・体育に限らず、学校は子供達にとって、社会・他者・自分に対する不信感や絶望を植え付けられるのではなく、 先述の長縄跳びのように"出来ないことが(周りの人のサポートやアドバイス、自分の工夫や練習などによって)出来るようになった、という喜び"も含めて自分の可能性や将来の使命を見出せる場であってほしい。 10、体育の時、張り切って仕切る人ってどう思いますか? → 部活などで経験豊富な人が体育・スポーツ行事の場で、あまり動けていない素人チームメートに"そっちを守れ・攻めろ"と全体を見て的確に指示できる、というなら頼もしいと思うが …以下、質問5に同じ 11、体育の時間は何の時間に変えるべきだと思いますか? → 学校の体育はいらないとは言わない。問題なのは(上記まででまだ述べていない事) ・熱中症や組体操での骨折など、後を絶たない事故 ・「体育」は、国語辞典を見ると「知育・徳育に対して、スポーツや運動を通して心身の健全な発育を促し、運動能力や健康な生活を営む能力を養うことを目的とする教育」、 学習指導要領上では「心身の健康についての理解と合理的な運動の実践を通じて、健康の保持増進と体力の向上を図り、心身ともに健康な生活を営む態度を養う」ことを目的としている(cf.電子辞書のブリタニカ国際大百科事典) あるいはスポーツや運動は健康増進・精神力や社会性向上(チームワーク力、正々堂々とフェアプレーする精神など)に役立つというなら、 体育を知育領域と一緒くたに点数を付けて進路振り分けの材料にするのはいかがなものか(スポーツ推薦進学ならともかく。「保健」は知育領域寄りでしょうが) ―とは中学時代に体育で2を取ったことで内申への影響を心配した者のひがみだったと言われても文句は言えんが + 徳育はどうなのか + 音楽や美術ができる人は体育・スポーツができる人に比べると評価されない傾向(部活でも、運動部が文化系部より偉いと見なす風潮)―は学校によるのかもしれないが ・行き過ぎた根性至上論、ネガティブな競争やレッテル貼り "自分は運動が嫌いだと思っていたけれど、そうではなく、学校の体育の授業が嫌いだっただけだと後から気付いた"という大人は私だけではなかったようで。 スポーツや運動は健康増進・要介護防止に役立つというなら、「子供の頃の苦い経験故の運動嫌い」の人を増やすのは、結局のところ社会にとって損失なのかもしれない ―とは飛躍し過ぎか 12、ありがとうございました → アスリート達のためにも、オリンピックが廃止されるべきとは別段思わないので、ひとまず東京オリンピックが国内外情勢に関係なく今のまま続行という前提で申し上げますと、 当初の考えは、備忘録替わりに残しておいたとおり "「スポーツを通した世界の結束に貢献するためのオリンピック開催」という、ある種前向きな目標に取り組むことで、日本にとっても発展と向上につながるのであれば東京オリンピック招致・開催に賛成、 単に景気づけの経済効果・ステータス目当てとか、この国で楽しみたいだけなら反対" ―でしたが、新国立競技場問題から得た教訓が何もないかのような迷走ぶりに、もはやため息ばかり出てくるのが正直なところ、 いつの何新聞(雑誌)だったか覚えていないものの「一億円 そんな小金は 不明です」とかいう川柳が載っていたのが頭に浮かびましたが… と同時に東京オリンピックを支持する理由(もしくは言い訳)を端的に述べるなら、 "オリンピックと災害復興を共に進めると宣言して開催権を得た以上、日本が「有言実行するかどうか」に世界の目が注がれ、日本にとってはいわば尻を叩かれることになるから" ―といったところですが、そう上手く事が運ぶかは果たして… (ややこじつけ) 一部、次回と重複すると思います。 <バトン持ち帰り> http://fblg.jp/baton/show?id=1515 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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