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『書店と民主主義』福嶋聡(あきら) 人文書院
この本を手に取るに至った経過をまず書く。今年(2019年)も、「朝日新聞阪神支局襲撃事件を忘れない5月3日集会」が西宮市役所東館で開催された。講演会のチラシを見たとき、演題の「「民主主義と書店を考える」ヘイト本と向き合いながら」という文句に引き付けられた。講演を行うのはジュンク堂難波店店長・福嶋聡氏である。 ジュンク堂にはある思いがあった。数年前に三宮店に行ったとき(リニューアルの前)、レジの近くに百田氏の本が平積みされており、そこに「安倍首相も愛読!」というポップが揺れていた。そのまま店を出た。最近では、紀伊國屋書店の「百田センセイご来店有難うございます!」というツィートが炎上したのだが、それに近い気持ちだったと思う。
売り場面積が小さな新幹線の新大阪駅の店で、「WILL」、「正論」、百田本がずらりと平積みになっていた時には呆れるよりも哀しくなったことを思い出す。 そんな中での現役の書店店長の「ヘイト本と向き合いながら」である。行かないわけにはいかない。
その背骨となっているのは憲法第21条①「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」である。 結論としては極めて平凡なものである。私でも言える。ただ、と思った。ヘイト本の及ぼす影響の大きさを知り、自分が店長をしている書店の棚にヘイト本がある事についておそらく心穏やかではない福嶋氏が、「言論には言論を」と言い切るためには様々な精神的な紆余曲折があったのではないかと推察する。本を読み終えて、その軌跡を理解できたと思った。
この本の副題は「言論のアリーナのために」である。歴史を教えているせいもあるが、「アリーナ」という言葉からは、ついつい古代ローマの「闘技場」を連想してしまう。剣闘士たちによる戦いの結末として「多くの血を吸った砂」が原義である。 「ペンは剣よりも強し」という言葉には「そうあってほしい」という願望が託されているという事を分かったうえで言うのだが、鋭い論説は、批判された相手を再起不能にしたり、文筆家としての生命を奪ってしまう事もある。また、心無い言説は人の心を深く傷つけ、時には自死に追いやることもある。
「第一に、オウムの犯罪が明らかになって以降、もはや「書籍に騙されて」入信する人たちはいないだろう、むしろ事件後にオウム出版の本は無害になったと言える。 第二に、オウム真理教が前代未聞の事件を起こしたのであれば、学界やジャーナリズムの人たちは、その原因や状況について検証するのが仕事である。その原資料としてのオウム出版の本を提供する責任が書店にはある。 第三に、犯罪発覚以後、すべてのマスコミがオウム真理教を敵視し、多くの自治体で入居を拒否された。(一連の事件と無関係な人々を含めた)信者たちは、完全な閉塞状態に陥っていた。彼らにとって反論の場は、もはやオウム出版の出版物にしかなかった。実際には事件後の発行は不可能だったとしてもかつて出版されていたものがすべて市場から排除されることによる無力感、絶望感が、彼らを必要以上に追いつめることになるのではないか。それはかえって危険ではないか。まず勝ち目のない状況においてもなお主張、表現を許される場があるということが、「出版の自由」であり、それが持っている価値ではないか」。 (p8)。 オウム本は、もっと真剣に読まれ、批判の対象とされるべきであったと今にして思う。それは、ヒトラーの『わが闘争』に書いてある事を詳しく分析してその「大衆観」に対して警鐘を鳴らす著作が皆無であった(ここは、私の不勉強かもしれないし)ことと無関係ではない。 今熱心に見ている「刑事フォイル」の「ハイ・キャッスル」という作品で、テーブルの上に置いてある『わが闘争』について、「結末は解っている。しかし始まりについて知らねばならない」というセリフがあり、深く頷いた。 閑話休題。
その時私は、「論理の飛躍」を何とも思わない書き手が此の日本にはなんと多い事かと思った。「この日本にはなんと多い事か」というのは、テレビ番組「チコちゃんに叱られる」の森田さんのナレーションだが、ホントに、「ボーっと書いてんじゃねぇよ!」と言いたいところである。
「価値中立性」という言葉は、社会学者ウェーバーの立場として引用されることが多いが、彼の主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を一読すれば、まず「そんなことはありえない。そう思い込むのは幻想だ」という事が解る。「不偏不党」という言葉もそうである。
実は、書きたいことはこの他にも多くある。「シャルリー・エブド」の件、 「憲法とは何か」についての高橋源一郎氏の指摘。しかし、ここでとりあえずは筆を(ワープロ打っていて筆はないけれど)おく。 まずは、福嶋氏が何度も言及しておられる『NOヘイト!出版の製造者責任を考える』(ころから刊)を読みたい。もちろん、福嶋氏の他の著書も。
補 批判するためには読まなければならない、というのはその通りである。以前、『永遠のゼロ』をどうしても読まねばならない事情が生じて少し緻密に読んだのだが、その精神的負担は大きかった。だが、この本を読み、書評を書いたものとしては、『正論』や『WILL』も読まねばならないかもしれない。本を読むのは単に知識を仕入れたり、「賢そうになる」ということではない。本当にいい本を読んだ後、その本は、読んだ人間の生き方を問うてくる。これも困った事である。 講演についてつたないメモを起こして、福嶋氏に朱筆を入れていただくことをお願いした。忙しい日々を送っておられる氏から、丁寧に加筆と訂正が入った原稿が送付された来た。感謝してもしきれないことだった。こうして書評を書かせていただくことで、氏への感謝を少しでも形にしたいと思っているのだが、逆効果にならないことを切に念じている。
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