漫望のなんでもかんでも

2023/08/21(月)23:05

『気骨の判決』

 2009年8月16日に放映された「気骨の判決」が再放送された。主人公・吉田久を小林薫が演じている。私はこの人が好きで、今回の肩に力が入らない飄々とした演技を楽しめた。 今回、『気骨の判決』清永聡 新潮新書 を読んで、昭和34年にやはりドラマ化され、その時に吉田(ドラマでは吉村)を演じたのが佐分利信だと知って、ずいぶんとタイプの違う役者さんが演じたんだなと思った。今では、佐分利信と言っても知る人も少ないだろうが。 昭和17(1942)年の衆議院議員選挙で、時の東条英機内閣は、「翼賛政治体制協議会」(略称 翼協)という組織を作らせて、この「翼協」が「推薦候補」なるものを公表した。共産党は事実上壊滅、その他の政党もすべて自主解散している中で、有権者は、「推薦候補」か「非推薦候補」のどちらかを選ぶしかなかった。推薦候補には、1人あたり5000円の選挙費用が臨時軍事費から支出されている。 ※ちなみに、前年の12月8日、アジア太平洋戦争が始まっている。 この時に、「非推薦」となったのが、鳩山一郎、尾崎行雄、三木武夫、斎藤隆夫、大野伴睦、片山哲、二階堂進ら。戦後日本の政治を担った人たちといえよう。 結果から言えば、「推薦候補」の八割が当選、議場の圧倒的多数を占めた。東条にしてみれば、議会の圧倒的多数を「推薦候補」が占めれば軍に対する議会の批判を封じられると考えたのだろうが、何の策も用いることなく八割の議席を獲得できたわけではない。その裏には、激しい選挙干渉が繰り広げられた。「非推薦候補」の演説会は、その当日に村の常会がぶつけられ、またその演説会に参加した有権者は、投票日には警察官などによって投票を妨害されている。「非推薦候補」を支持するような人は非国民と呼ばれ、町内会では、半強制的に、「推薦候補」への投票が命じられている。 このような中、「選挙無効」の訴えが出される。鹿児島二区の冨吉栄二が、同じように非推薦で落選した三人とともに、選挙干渉の実態をつぶさに調べて霞が関の大審院(今の最高裁)民事部に訴状を提出した。他に持ち込まれた選挙無効の訴えは、鹿児島一区、鹿児島三区、長崎一区、福島二区。 「選挙の無効」は、法令では「選挙の規定違反」となっている。法令では、組織的な選挙干渉や妨害を想定していなかった。 吉田は、当時五つあった民事部の中で、訴状が提出された四つの民事部の部長に対して以下のように語っている。   たとえ政府であっても、その自由公正さを害する大干渉をしたならば、それは選挙の規定に違反するものであり、それが選挙の結果に影響を及ぼせば、選挙無効の判決をすべきだ。P56  P57から70にかけて、吉田久の人となりが活写されている。一言でいえば「苦労人」と言えよう。吉田は、経済的に恵まれない環境の中で司法官になりたいという夢を持ち、地方裁判所の「小僧」となってお茶くみをしながら勉学に励んでいる。本試験の受験者1200人、合格者39人の狭き門を吉田は2番で合格している。検事になってからは、地方回りを続け、裁判官の道を目指す。結婚して四人の子を授かるが、妻に先立たれ、子どもをおぶいながら井戸端でおしめを洗うという生活を余儀なくされる。彼はその生活の中で、何でも自分でやるという人間になっていく。 さて、裁判にかえろう。多数の証人を尋問するために吉田は、部下である4人の裁判官を引き連れて昭和18(1943)年、鹿児島に出張する。 事実に基づく証言を引き出すために、法廷から特高を退廷させるというやり取りもあり、妨害の実態が明らかになっていく。 さらに吉田は、職権で、鹿児島県知事薄田美朝(すすきだよしとも)を喚問する。薄田の名前で推薦候補者に一票を投じよという推薦状が発見されたからだ。薄田は「私が署名したものではない」と言い張ったが、「あなたの名前で出されたこの通知が特定候補者の当選に有利になったと思わないか」と問われ、「そんなことはないはずです」と答えたが、再度「影響がないという理由を挙げてみよ」という問いには答えることが出来なかった。  出張尋問が終わって吉田らが無事に帰京した昭和18年7月の「法律新報」に大審院長・長島毅の「戦争と法律」という一文が掲載された。   何でもか(ん)でも勝たねばならぬ。勝ちさえすればよいのである。わが国のすべての人と物と力はこの目標に向かって進まねばならぬ。また進みつつある。(中略)法律もまたこの方向に向かって進むべきである。人と心と物との動きに立ち遅れた法律はただ屑籠に捨て去られて顧みられない反故紙でしかあり得ない。法律は、急転回をせねばならぬ、またしつつある。人と心と力の結集は法律を戦争の目的へと追い込みつつある。ただ、法律はこの急転回の最中に於いて。その中心を失ってはならぬ。P113~4  吉田は、このような時世の中で、判決を出さねばならなかった。 ここで、中島敦『李陵』の一節を紹介しよう。   酷吏として聞こえた一廷尉が常に帝の顔色を窺い合法的に法を枉(ま)げて帝の意を迎えることに巧みであった。或る人が法の権威を説いてこれを詰ったところ、これに答えていう。前主の是とするところこれが律となり、後主の是とするところこれが令となる。当時の君主の意の外に何の法があろうぞと。『李陵・山月記』新潮文庫P108  長島の一文は、「中心を失ってはならぬ」という逃げ口上めいた部分はあれども、「合法的に法を枉げて」時局に迎合するものに他ならない。 鹿児島への出張で尋問を受けた薄田は、尋問直後に警視総監になっている。 吉田には、特高の尾行がつくようになった。 昭和19年、全国から裁判所長、高裁長官が一堂に集められる「全国裁判所長官会議」が召集された。会議自体は明治から春に開かれて情報交換などが行われてきたのだが、この年は、冬の2月28日に開かれ、全員に対して東条の演説が行われた。新聞に非公表の部分の抜粋を以下に示す。   私は、司法権尊重の点に於いて人後に落つるものではないのであります。しかしながら勝利なくしては司法権の独立もあり得ないのであります。かりそめにも・・法文の末節に捉われ、・・戦争遂行上に重大なる障害を与うるがごとき措置をせらるるに於いては、まことに寒心に堪えないところであります。万々が一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政府といたしましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ずることをも考慮せざるを得なくなると考えているのであります。P134  1891(明治24)年5月11日に、訪日中のロシアの皇太子が、警備をしていた警察官の津田三蔵に切り付けられて負傷するという事件が起きた。政府はパニックに陥った。当時、日本の皇族に対して傷害を負わせるような行為を行った者は大逆罪として死刑が執行されていたが、外国の皇族についての規定はなかった。規定がない場合は、現行法を適用するしかない。となると、最高刑としては「無期徒刑」しかない。 政府は、なんとか津田を死刑にできないかと相談する。獄中の津田を何とかして殺せないかといったことまで相談したらしい。結局、裁判官に圧力をかけて、津田三蔵を死刑に処すという判決を出させようとなる。彼らの前に立ちはだかったのが、大審院長の児島惟謙である。児島は、規定がない以上現行法で裁き、無期徒刑を判決として下すしかないと決心していた。 この児島と東京駅で出会ったのが、西郷従道。西郷は、ロシアと戦ったら日本は必ず負ける。負けてしまったら、司法権の独立も何もないではないかと迫るが児島は意思を貫いて津田に対して無期徒刑の判決を下す。 天皇が療養中のロシア皇太子を見舞い、手を尽くして看病した結果ロシアとの関係が悪化することはなく、むしろ、司法権の独立を守ったという事で諸外国から日本は尊敬を受ける結果となった。 ここでもう一度、東条の言葉を振り返ってみよう。   勝利なくしては司法権の独立もあり得ない。  このようにして司法権の独立を土足で踏みにじり、戦況の現実を「大本営発表」という形で捻じ曲げた結果が、開いた口が塞がらないほどの敗戦であった。  さて、判決の言い渡しは昭和20年3月1日に行われた。吉田は、妻に(彼は再婚している)「もう帰ってこれないかもしれない」と言い残して家を出たという。 主文「昭和17年4月30日施行セラレタル鹿児島県第二区ニ於ケル衆議院議員ノ選挙ハ之ヲ無効トス 訴訟費用ハ被告ノ負担トス」 吉田は、翼賛選挙そのものにも踏み込んでいる。「翼賛政治体制のごとき政権政策を有せざる政治結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなりやは、大いに疑の存する所」 さらに、選挙干渉が組織的に行われたことをすべて認めた。  吉田は、判決の4日後に大審院を辞職している。 中央大学の講師をしていた吉田を、中央大学は辞めさせることをしていない。 そして判決から9日後の3月10日、東京大空襲が行われ、大審院も崩壊し、吉田が言い渡したばかりの判決原本も行方不明となった。 敗戦後に、吉田は、吉田茂の要請を受けて貴族院の勅任議員となり、憲法制定、法律の実務にあたっている。憲法76条には、「すべて裁判官は、その良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」とある。吉田の理想が実現したと言えよう。  吉田は、「正義とは何ですか?」と問われて、「正義とは、倒れているおばあさんがいれば背負って病院に連れて行ってあげることだ」と答えたという人柄が分かるエピソードだ。  近年、行方不明とされていた吉田の判決原本が発見された。最高裁の記録保管庫の未整理資料の中にあったという。東京大空襲の際も裁判所の書記たちは、命がけで、書類、判決原本を運び出していたのだ。ふと、「天命」という言葉が頭に浮かんだ。

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